サンライズの物語

サンライズでは、ご利用者様の「安心」と「笑顔」のためにできることを追い求めています。
たくさんの出会いの中で、私たちはご利用者様から多くのことを教えていただきました。
ここでは、ご利用者様とのお付き合いの中で生まれた心温まる物語をご紹介させていただきます。

エピソード113 本当の自分を認め――
自分自身について考える物語

その方は、高校1年で学業を辞め社会人として勤めた方でした。その方の口癖は「私は学生であることを自分で決めて辞めたことだったが、今思うと他の人よりも知識が少なくいつもコンプレックスがある」と言っていたのです。

果たしてそうでしょうか?コンプレックスは自分の価値観が決めることだと思うのです。
両親がいない方や容姿にこだわることは日常的にあることですが、そのことをハンデだと思うことは自身の心が決めることだと思います。

社会や生活という戦いの中で生きてきたことが素晴らしいことではないかと感じます。
誰もが自分の劣っているところを嫌いになり何かアクシデントがある度に自分を責めたりしていますが、本当の自分をもっと認めることが必要ではないでしょうか。

以前聞いたことがある「自灯明」という言葉が心に残っています。ひとりひとりの存在は唯一無二の存在であり自分自身を頼りに生きること。自分に関わる全ての人たちに感謝することを忘れていけないと思います。

エピソード112 人を愛し尽くされた――
生きざまについて考える物語

その方は、ご主人様の担当ケアマネをさせて頂き永眠され10年程経った時に奥様が歩行困難になったとの連絡があり携わらせて頂いた方でした。
下町育ちのキップの良い親分肌の奥様でご主人が存命の頃から銀行の外交員が訪問しても食事を出したり、近所の知り合いの八百屋さんやお米屋さんに頼まれると沢山購入したりと義理人情に厚い人でした。
結婚当初はお姑さんや小姑の世話、農家の手伝いをし子供を育て、孫と一緒に海外旅行も何度もしていたのです。
ご主人の最期が居間で急変し奥様の腕の中で息を引き取ったこともあり毎回訪問すると「主人は幸せな人だった。私の腕の中で静かに眠ったのよね」と話されていたのでした。
そんな中奥様との別れは突然やって来たのです。ある晩お嫁さんから連絡がありお風呂で意識が無くなったとの事。緊急搬送されましたが意識は戻らなかったのでした。
少し前に奥様から連絡があり訪問した時に息子さんやお嫁さん、お孫さんへの感謝の話をされたのです。
お悔みに訪問するとご主人様との結婚式の写真が飾られており幸せそうな表情をされていたのです。ご家族に先日私が訪問した時に話された感謝の言葉を伝えると涙を零されておりました。
人が永遠の眠りにつく前の何か月前から予兆があると言われますが、きっと私を通して家族へ感謝の気持ちを伝えたのだと思います。
死に際がその方の生きざまと言われていますが、本当に人を愛し尽された奥様の人柄が弔問の人達の話から偲ばれました。別れは何度経験しても慣れる事はなく悲しい想いにかられました・・・

エピソード111 突然の別れ――
最期について考える物語

その方は統合失調症に若い時から罹患されていた方でした。
ご主人との二人暮らしでしたが10年程前にご主人が先に旅立たれ一人で暮らしていたのです。
娘二人が自宅へ連れて行き月の半分は二人の娘と孫を過ごす日々を重ねておられました。自宅では近所に長男夫婦が毎日訪問し内服管理等の介護をされていたのです。
自分でできる家事はルーティンで行い食事も自分で作ったり買い物をしたり、近所の掃除をしたりと決まったことを続けていたのです。
精神通院のデイの送迎に関わったヘルパーさん達にも慕われ、お人柄が素晴らしい方でした。
そんな中別れは突然やってきたのです。ある日朝ヘルパーが訪問すると浴室で息を引き取っていたのでした。
ご家族にとってかけがえのない存在だったお母様・・・ご長男様やお嫁さん、お孫さん達も失意に苛まれてしまったのです。
ご家族様は、お気持ちの折り合いをつけるには大好きだった自宅での最期であった事。お正月も娘さん宅でお孫さん達と過ごしていたことがせめてもの救いだったと話されておりました。
自分に置き換えると自身の最期はどんなふうにやってくるのだろうと考えてしまいました。
突然、その時がやって来ても恥ずかしくない毎日を送らなければならないと思うのです。

エピソード110 いつも変わらぬ生活があること――
毎日の幸せをかみしめる物語

その方はすい臓がんと診断され自宅へ戻った方でした。担当包括の方と訪問すると痛みで横にもなれない状態となっていました。
ベットや訪問診療を提案するも拒否され2階の寝室へ行くと言っていたのですが、次の日には痛みに耐えかねベット、訪問診療利用の希望の連絡が入ったのです。
福祉用具と同行訪問すると子供さん達も訪問されており往診の先生に痛み止めの座薬を処方され安心された様子でした。
そんな時にその方が「私は来年7月に65歳の誕生日を迎える前に死にたい。その理由は65歳までに死ぬことができれば保険金が入る。せめて子供達に残してあげたい」と話されたのです。
自分が痛みに苦しむ中、なおも子供達の将来を案じる親心に涙が零れてしまいました。自宅で20日程過ごしましたが入院され永遠の眠りについたのです。子供達の世話になりたくないとのご自分の意思を貫かれた最期でした。
親の心とは・・・どこまでの果てしなく尊い心・・・自分の苦しみや痛みまでも超える心。
子供は自分の分身でもあり子供の将来を案じる心は未来永劫変わることはないと感じます。子供はいつも親が傍に居る事が当たり前のことだと思っていると思いますが、毎日過ごしている今がいつ消え失せてしまうのか誰にもわかることはありません。
朝目覚めること、ご飯を食べられること、近隣のいつもの風景に出会えることは奇跡なのだと・・・そう考えると毎日の幸せを噛みしめずにはいられないと思うのです。

エピソード109 魂が呼びかけることもある――
人とのつながりについて考える物語

その方は単身で暮らしておられ今年夏急に両下肢に力が入らなくなり関わらせて頂いた方でした。
10月に入り訪問診療より血液検査の結果が良くないのでと連絡があり病院で精査を勧められましたが、ご本人が断固拒否されたのです。先生方の推測によるとすい臓がんの疑いがあるとの事。ベットから立ち上がる事も困難になったのです。
入院も勧めましたが自宅に居ると拒否されました。身寄りもなく毎日訪問するヘルパーさんや訪問入浴の方々と会話をするのが楽しいと話されていました。
訪問診療からは急変する可能性が高いと診断されていました。そんな時、定期で訪問するヘルパーが休みを出し、本人が大好きだったヘルパーが訪問すると永遠の眠りについていました。
訪問診療の医師と私も駆け付けた時、まだ体には温もりがありました。「お疲れ様でしたね。ゆっくり眠ってね」と声を掛け会社に戻ると担当包括から連絡があり、本日朝友人の方から包括に連絡があり「これから会いに行きたい」との伝言を受けたとの事。朝永眠された事を伝えたのでした。
この仕事に関わってから不思議な現象に何度か巡りあう事があります。スピリチュアルな現象・・・きっと友人や大好きだったヘルパーを呼び寄せたのでしょう。
人の魂とは不思議です。目に見えなくても、聞こえなくても、その人達に魂が呼びかけることがあるのだと・・・
自分が困った時によく母や主人の夢を見ます。姿形は無くなっても魂が心の中に呼び掛けるのだと思います。この世を旅立つのは別れではありません。いつかどこかで再び出会う為の門出だと信じています。

エピソード108 平凡な日々に感謝を――
生きることについて考える物語

その方は40代半ばで末期のガン(ステージ4)と診断され抗がん剤治療を行い自宅へ戻られた方でした。単身で自分の生活を守ろうと職場にも復帰し過ごしていました。
そんな中、癌が再発。入院となり麻薬が処方されましたが効果が表れずに痛みに苦しみ疼痛管理が上手く行ってから再度自宅へ戻ったのです。職場への復帰を目標にお姉さまが泊まり込み介護をしていました。
定期訪問でお会いすると体調が優れないもどかしさを話され泣かれていました。以前のように一人での生活を望まれていましたが叶わない事に憤りを感じお姉さまへ辛い言葉をぶつけていたのです。なんと言葉を掛けたら心が軽くなるのかと考えながらの会話の中現実の厳しい状況に手だてが無く「大丈夫ですよ。みんなが付いているから心配はありませんよ」と言うのが精一杯だった事を思い出します。
自宅での痛みが続きトイレの前で座り込んだ時も何度か訪問してベットへ返るお手伝いに駆けつけると、ご本人様は泣きじゃくっていたのです。「大丈夫、大丈夫」と声を掛けましたが一緒に涙が零れてしまいました。
その後、大学病院へ相談した結果、再入院となり余命宣告をされたとお姉さまから泣きながら連絡が来たのです。ただ生きたいだけ・・・生きていたいだけ・・・そんな平凡な事ができない人がいます・・・
その悔しい思いを考えると毎日報道されている世界情勢の中で、自分たちの私利私欲の為に幼い子供達を戦争と言う大義名分で傷つけている人が居る現実に心が痛みます。
今を一生懸命に生きなければいけない。そして、生きている平凡な毎日に感謝しなければならないと思うのです。

エピソード107 励ますことの難しさ――
言葉の力について考える物語

その方はいつも自分の人生を悲観し自殺願望の強い方でした。
生い立ちも壮絶で巡り合ったご主人とも縁に恵まれずに一人で暮らしていたのですが
いつもアクシデントが起こるとイコール死にたい。と思ってしまう方です。
どんな励ましも受け付けずに死ぬ方法を口にしては周囲を翻弄していたのです。
そんな方を励ます言葉をいつも探しては悩んでいたのです。その方の心を動かす言葉・・・自分の小さな引き出しから取り出す作業を何度も試みたのですがなかなか動かす事はできなかったのです。以前ドラマの中で「生きている限り誰にも負けないわよ」と言う言葉に心打たれた記憶があります。複雑な社会情勢のなか、心を病んでいる人は沢山います。今、地域包括ケアシステムから地域共生社会構築が叫ばれていますが、心を軽くする言葉を持っているメンタルケアの専門職や地域の住人が個々の自宅を訪問することで一人の人を皆の力で支え合う社会になる事を願って止みません。

エピソード106 親との別れ――
偉大な存在について考える物語

その方は娘さんと二人で助け合いながら暮らしていた方でした。昨年夏から急に身体機能が低下してしまいベット上の生活となってしまいましたが、娘さんが一人でオムツ交換や食事の世話をしていました。

両足に褥瘡が出現した時も訪問診療の指導の元娘さんの手厚い看病で改善した時は娘さんと喜んでいた事を思いだします。

そんな中だんだんと食欲が低下し始めたのでした。毎日訪問看護が訪問して点滴や経口からの水分摂取を行っていたのですが力尽き永遠の眠りについてしまったのでした。 お悔みに訪問すると娘さんや息子さん達が傍に付き添っておられお母様の亡骸に涙を流されておりました。

誰しも親との別れはいつかは訪れます。子供の幸せを願い育て愛おしんでやみません。その恩を子供は直接親へ返す術もなく失ってから時が経つにつれ親とは偉大な存在だと、思い知らされるのです。恩を返すとするならば、これからの人生を精一杯生きることだと考えます。

エピソード105
サービス提供責任者の魅力について

サービス提供責任者という役割がやりがいのある仕事です。ケアマネからきた計画書に添って援助内容を組み立て、ヘルパーに引き継ぐ・・・

各ヘルパーや利用者様から上がった問題点をケアマネに報告し解決していく作業が楽しくて仕方ありませんでした。担当していた利用者様は約40名強でしたが毎日が充実していた事を思い出します。

あるヘルパーから「井上さんはヘルパーの時も楽しいといい続けていたけど、私は楽しくないのよ」と相談されたこともありました。ヘルパーの仕事は思った程生易しい仕事ではないことも分かってはおりました。

サービス提供責任者に従事したばかりの頃は、何をして良いのかが分からずに毎日眠れなくなるまで思い悩んだ時期もありました。主人からも毎晩寝言で「何とかさん、こうではないんですか・・・」等言ってたよとの話も出た程、自分の受け持った利用者の援助内容は適切なんだろうか?ケアマネに提案する事はないのだろうか?と思ったものでした。今思い返すに、仕事上で本気で思い悩んだり、上司に怒られたりした時に自分が成長したのではないかと思ってます。

この介護職を愛して止まない私にとって、毎日が真剣勝負だと考えており、出来ないと決めるのは自分でしかなく、出来ないと思った瞬間から何もできなくなる。出来ると決めたら何でもできると・・何時も自分に言い聞かせている次第です。

エピソード104 家族に大切にされ続けた最期――
年を取ることについて考える物語

その方は弊社立ち上げたばかりの頃、娘宅へ同居したことがきっかけで関わらせて頂きました。

とってもハイカラさんで署名欄に「変形かな文字」を書いたり「英語でサイン」したりとチャーミングな方でした。
100歳を超えてから毎年利用している施設での誕生日会にも同席させて頂いた時もケーキをパクリパクリと食べてしまい、娘さんのケーキも食べていた程の元気な方でした。自宅では同居の娘さんのご主人が素敵な方で、いつもトイレまで抱えたり、散歩に連れ出すのが日課でした。ご主人の口癖は「家のおばあちゃんは大した人ですよ」とビデオや写真を撮っては見せてくれていたのです。ご家族との合言葉は「目指せ足立区長寿1位」毎回訪問する度に「まだ1位になれないのよ。同一2位(107歳)」と言われ皆で1位になるのを首を長く待っていたのでした。ベット上でオムツ交換は可哀そうだと最後までトイレへ誘導し娘さんとご主人で大事に介護されていたのですが、先月下旬肺に水が溜まり入院後静かに息を引き取ったのでした。
年を取ることは残酷です。人は誰もが年を重ねてできない事が増えてきます。できなくなった時こそ家族の力が必要とされるのです。家族に大切にされ続けた幸せな最後だったと思います。そんな方々に関われた事に感謝の気持ちで一杯になりました。

エピソード103 大切な人達は何時も身近に――
自分を支えてくれる人について考える物語

その方は昨年弊社を退職した長年一緒に働いてくれた人でした。とても素敵で物事をいつも達観して分析してくれる心強い人だったのです。

私が苦境に立った時も「前を見ては駄目だよ。足元を見て一歩ずつ歩くんだよ。そうすると知らず知らずに成長していくのよ。山登りと一緒だよ。」と私の心が軽くなる言葉を投げかけてくれたのです。

以前の私は仕事に真剣な余りに決して間違いをしてはいけないと気負って仕事をしていました。そんな時も「正しい事を言う時は逃げ道を用意しなければ正しい事は相手の心に響かないのよ」と何度も諫めてくれたのです。

その人は読書が大好きで本の文章の一説をいつも私に教えてくれたのです。テレビのドラマを見ても私に「このドラマのセリフを聴いた時に貴方を思い出したよ。『戦いとは屈しない心を持つ事を言うのだ』貴方にピッタリな言葉だよ」と・・・。

先日主任介護支援専門員の研修で「セルフケア」が題材でしたが、講師の先生が自身のセルフケアを簡単に行うのはリラックスな状態で目を閉じ自分が窮地に追い込まれた時に自分を何時も励ましてくれる人を思い出し、その人が自分になんと言ってくれるか想像してみて下さい。との問いにその人の言葉が頭をよぎり涙が零れたのでした。 どんな時も自分を励ましたり、叱ってくれる存在に感謝の言葉を伝えるのを忘れてしまう自分がいる事にも気付きました。

大切な人達は何時も自分の身近にいる事を忘れないようにしなければいけないと心に誓ったのです。

エピソード102 自分にとって最大の味方――
親の偉大さについて考える物語

その方は、昨年9月急に動けなくなってしまい食事量も低下しておりどうしたらよいのかわからないとの、ご家族様からの問い合わせに対応した方でした。

毎日訪問介護が訪問し食事の介助、排泄介助を行う中、徐々に体力を回復され、訪問するヘルパーの装いに「あなたのパンツは素敵ね」等の言葉を発し、お嫁さんが手作りの食事を持参すると「うちのお嫁さんは料理が上手なのよ」と平らげていたのでした。

そんな中今年4月になると様子が一変し食事も水分も摂る事ができずに少しずつ体力が低下し傾眠をするようになってしまったのでした。

訪問看護より「今日が山場かな」との話に娘さんが広島から駆け付けご本人の好きだった歌を耳元で掛け続けて昔元気だった頃のお母様の話をされていました。

民生委員だった事・・・盆踊りが好きだったこと・・・地域での活躍のこと・・小さい頃母から叱られたこと・・・母がいつも言っていた言葉・・・楽しそうに話される娘さんの瞳は涙で濡れていたのです。そしてその夜娘さんが眠っている間に永遠の眠りについたのでした。

私も両親を亡くしておりますが、毎日母の言った言葉を思い出さない日はありません。 子供の成長を願い教える言葉・・・母がいつも言っていたことは「私の言葉は私が亡くなったあとに思いだしなさい」が口癖でした。

そんな時思うのは親とはいかに偉大な存在なんだろうと感じます。自分にとって最大の味方です。夢でも母にもう一度会った時には感謝の言葉を伝えなければと思うのです。

エピソード101 何かもっとできることは無かったのか――
介護職として出来ることについて考える物語

その方は、肝臓癌に罹患し病院での治療を諦め自宅へ戻った方でした。
肝臓の半分以上が癌に浸潤され余命宣告をされたとの事。

初回訪問の次の日に暫定の担当者会議を開催し訪問診療、訪問看護、訪問介護を利用すると一旦は元気を取り戻しヘルパーに「毎日来てもいいよ」と笑顔で挨拶する程になっていました。

しかし、翌週には傾眠が始まり朝方永遠の眠りについたのでした。最後までご家族に囲まれて息を引き取ったとのこと。

お悔みに訪問すると奥様より「本当に満足のいく看取りでした。もう少し介護の方々と関わっていたかった。主人も幸せだったと思います」お子様達も泣いてはおられましたが「父の最期に傍にいられしあわせな気持ちになりました」との言葉を聞いた時に胸が詰まり涙が零れました。

最愛の家族を見送ること・・・辛いことです。残された家族の気持ちが少しでも前を向けることに繋がればと願うばかりです。

毎回ご利用者様との別れのときに思うことは、介護職として、何かもっとできることはなかったのかと自問自答する気持ちだけが残ります。

エピソード100 1日も早く治るように――
希望を持ち続けている方々を想う物語

弊社で関わらせて頂いている、ご利用者様の中には難病に苦しんでいる方々が沢山いらっしゃいます。

パーキンソン病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)等の難病に罹患しても希望を持ち続けている人達がいます。新しい薬を誕生させる為の治験に一筋の光を見出して挑んでいる方もいます。

ips細胞といえば、京都大学の山中教授だという認識は日本人の多くの方は持っていると思います。現在様々な臓器、器官に分化させるための培養方法が研究されているとの事。再生医療は目覚ましい発展をしております。

以前は癌は不治の病と思われていましたがips細胞から様々なタイプのがん細胞を作成し抗がん剤の効果を試す実験がはじめられております。

今後ips細胞を使った研究、医療は大きく発展していくでしょう。しかしそれに伴って新しい問題も発生し、問題の予測、解決は非常に重要となり日本全国の多くの研究グループが研究を進めているとの事。

難病で毎日の生活に打ちひしがれて絶望に陥りながら希望を持つ苦しさ・・・そんな方々が一日も早く治る望みが持てる、未来に繋がる研究に日本の財政を投資して頂きたいと願うばかりです。

エピソード99 ご家族に囲まれた旅立ち――
介護職としてできることを考える物語

その方は、年末国立がんセンターから退院した末期がんに罹患した方でした。

自宅へ戻りたい一心で帰ったのです。息子さんや娘さんが待つ自宅へと必死の思いで帰宅したのです。

お会いした時は、実のお姉さまも来ておられ、「自宅へ戻り安心しました。」と言うとすぐにベットに横になられました。

息子さん、娘さん、お姉さまが介護に携わっていたのですが4日後に自宅で息を引き取りました。

ご家族に囲まれた旅立ち・・・その方の一途な思い・・・自宅で看取る辛さ苦しさは想像を絶する辛い別れだと思います。

その反面安らいだ空間での旅立ちは、その方にとっては安心できる場所だったのでないかと思います。

利用者様や家族との別れの時に思うことは、人は何故死ななければならないのだろうか。そんな愚問が頭の中に浮かぶのです。

エピソード98 医療、介護の連携――
残されたご家族様に寄り添う物語

その方は、自宅で1週間前まで元気で自転車で買い物へ行ったりしていた方でした。

自宅で転倒をして緊急搬送された病院で肝がん末期と診断され自宅へ戻ったのでした。

余りの急変にご家族様の戸惑いは図り知れず、ベット上で「助けて」を繰り返すお母様に対し娘さんが「大丈夫だから。心配いらないよ」と何度も声を掛けていたのでした。

訪問診療、訪問看護等の連携が素晴らしく連日訪問して手当をしていましたが、1週間余りで永遠の眠りについてしまいました。

在宅での医療、介護の連携とご家族の協力。自宅で看取る辛さ悲しさをチーム全員が支えていたのです。

一番安心した空間でもある、自宅で息を引き取ることは、何時も聞いている生活音、匂い、家族の話声・・・

誰もが迎える最後の時を忘れていると思います。自分自身が最後をどう迎えるかを考えておかねばならないと感じます。

エピソード97 出来ないことが増える悔しさ――
介護職として寄り添う物語

その方は、要介護となった奥様をこよなく愛し美味しい物を食べに毎日車で連れて行ったり、毎週旅行へと二人で出かけていた方でした。

そんな中ご主人の体調が悪くなり動けなくなってしまったのでした。何度か入退院を繰り返し自宅へと戻って来たのです。

退院時は体調も改善し奥様と食べ歩きに行こうと美味しいお店のパンフレットを取り寄せては行くのを楽しみにしていたのですが、突然状態が悪化してしまった時、ご主人がパンフレットを破り捨てるのを目の前で見た時に「何も破り捨てることはないですよ。また行ける機会がありますよ」と言うのが精一杯でした。悔しかったのだと思います。

その数日後自宅で息を引き取ったのでした。

健康な時は何気なく出掛けられた普通のことができなくなる悲しさを垣間見たとき・・・悔しい想いに触れたとき・・

誰もがいつまでも健康でいることを疑いもしない現実があります。

そんな時に何時も思うことは、どうして神様は人生の最後に私達に辛い試練を与えるのだろうかと考えると、最愛の人と別れる悲しさを乗り越える強さをもらうのだと思います。

介護職として少しでも辛い想いに寄り添えればと考えます。

エピソード96 リスクを顧みず立ち向かう――
介護職の使命について考える物語

その方は弊社が始まった頃にお会いした方でした。とってもチャーミングな方で何時も歌を歌ったり、ヘルパーに「ありがとうね」と言う言葉を忘れず、各ヘルパーからも訪問すると癒されると言われていた人でした。

何年も独居で頑張られておりましたが、年齢を重ねる度に体力が低下し褥瘡が出現してしまったのです。

そんな時も歌を歌う事は忘れずいましたが、訪問診療から急変するかも知れないと診断され、ご家族が見守る中永眠されたのでした。

コロナ禍の中誰にも会えずに永眠される方もいらっしゃることを考えると、ご家族様に見守られながら永遠の眠りにつく幸せは在宅ならではだと思います。

コロナ禍の中、介護職としての使命について何時も考える事があります。利用者様がコロナと診断されても生命に関わる状況にあれば訪問する事が私達の使命であり誇りだと考えます。

そんな職業に携われたことに感謝しかありません。

エピソード95 様々な立場から考える――
安心安全な社会について考える物語

9月は毎週末台風の襲来に驚きました。台風が来る度に思い出すのは3年前、2019年10月12日過去最強クラス台風19号、大型で強い勢力を保ったまま伊豆半島へ上陸したのでした。

風速25mの暴風域を伴い12日(土)夕方から夜にかけ関東地方に上陸した時の事です。区の広報が避難するようにアナウンスが何度も流れ恐怖が一層身近に感じたのです。

利用者の家族からの電話が鳴り止まず「川が氾濫したら1階に寝ている夫を置いて逃げられない」「二階に上がりたいが一人では上がれない」等の電話です。「川が氾濫したらご主人のベットを一番高く上げギャッジして最悪奥様だけ2階へ逃げて欲しい」と伝えるのが精一杯だったのです。

後日他の方々からも当日の状況を聴きましたが、暴風雨の中小学校へ逃げたが階段しかなかった事。トイレが和式で入れなかった事。皆さんが口を揃えて言った事が「弱い者には死ねと言うことなのか。悔しかった。いくら逃げろとアナウンスがあっても逃げられない」と泣いておられました。

家族からは「この悔しい思いをどこの機関に伝えたら改善してくれるのか」との問いかけも沢山あったのです。 今、BCP(業務策定計画)が叫ばれておりますが、高齢者お一人お一人が安心して過ごせる社会を作らねばならないと思います。

エピソード94 どんな境遇にあっても――
歳の重ね方について考える物語

その方は両親、ご主人、子供から虐待を受け障がい者となりベット上の生活となった方でした。

そんな境遇にも関わらず何時も明るく「今が一番幸せ。体調は絶好調なのよ」が口癖でした。

自宅から外への外出が困難な間取りだった事から施設への入所も提案されましたが、この場所に居たいとの思いが強く拒否されていたのです。

そんな中突然ヘルパーが朝訪問すると息を引き取っていたのでした。亡くなる前日に私への電話があり「今日は訪問入浴来ないの」との事。予定は明日だと伝えると「勘違いしたのね。ありがとう」・・・その会話が最後でした。

自分が望んでいない環境に生まれ・・・自分の理想とはかけ離れた人との出会いをする・・・悲しいことですね。

年を重ねることは残酷なことです。できないことが増え出会った人達とは別れねばならない。でも、できることも沢山あるのだと考えることが大事なことだと思います。

どんな境遇にあっても今が一番幸せだと言える自分でありたいと考えます。

エピソード93 語らずとも伝わる想い――
家族の絆について考える物語

その方は、末期の前立腺癌に罹患し余命宣告をされ自宅へ戻った方でした。こよなく家族を愛し子供たちを山登りに連れて行っていたのです。

退院時はとても元気で家へ戻ったら「妻のお蕎麦を食べるのが楽しみ」と話されていたのでした。

自宅へ戻り好物のお蕎麦、うなぎを食べ「美味しかったよう~」と嬉しそうに話されておりました。

毎週孫と愛犬が来るのを楽しみにしていたのです。

そんな中体力は急激に低下しベットから起き上がれなくなってしまいました。奥様が傍で介護をしていましたが痛みがあっても弱音を吐かない夫を看ながら、奥様がポツンと言った言葉が「主人は無口で余り話をしない人です。私が一方的に話してもうなずくだけですが、主人の家族に対する思いは多くを語らずとも主人の思いは伝わります」と・・・

最期の時・・・家族が見守るなか天国へと旅立ちました。言葉にしなくても分かり合える家族への想い・・・素敵なご家族だと思いました。

エピソード92 最後だから伝えられる――
家族の見えない絆について考える物語

その方は、両下肢に少し浮腫があり介護認定が下りたらデイサービスでの通いリハビリを希望していた方でした。

奥様は数年前に亡くされ、近所に住んでいる長女が食事や家事などを行っていました。娘さん曰く頑固な人で長男、次女とも仲たがいしてしまい疎遠になっていると言われていました。

そんな中両下肢の浮腫が悪化し精密検査の結果、胆管癌を診断され、みるみるうちに体力が低下してしまったのでした。

2階が寝室だったのを1階に移しベットを借りた矢先、一人ではトイレへも行けなくなったのです。娘さんが世話をすると「ありがとうね」と何度も感謝の言葉を口にしたとの事。

亡くなる当日疎遠にしていた子供たちが傍らに来た時に、自分が居なくなった後の事を子供たちに託したとの事でした。

お悔みの言葉を伝えに行った時、娘さんが「最後まで父の世話ができ今まで話せなかったことまで話ができ、長年わだかまりがあった父という人を少し理解ができたような気がしました」と話されました。

人生の幕を引くときに残された家族に伝える言葉・・・今まで言葉にできない感情を伝える大切さ・・・最愛の家族を介護することは、辛いことばかりではないと思いました。

エピソード91 自分自身だったら――
人生の最後について考える物語

その方は、末期の膵臓癌に罹患し退院した方でした。女手一つで一人息子を育て70歳まで仕事に従事し昨年体調不良で入院後診断された方でした。

最後まで自宅で過ごしたいと言うのが、ご本人様の意思でした。

息子さんが仕事をしながらお母様を看ていたのですが日増しに体力が低下し食欲もなくなってきたのですが、ご本人様の気力が強くトイレまで移動していたのです。

担当のヘルパーには「自分はこの家で最後まで過ごす。息子には感謝している。思い残すことはない」と話されていたそうです。

息を引き取る当日、訪問すると虫の息でも弱音を吐くこともなく病と闘っていたのです。隣で泣き続ける息子さんに「最後まで安心できる声掛けをお願いしますね」と言うのが精一杯で涙が零れてきました。

何度も人生の最後に立ち会いましたが、その都度想うことは自分自身だったら弱音を吐かずに幕を引けるのだろうかと・・・

誰も避けることのできない人生の最後に思うことや見る景色はどんな景色だろうと思いを馳せるばかりです。

エピソード90 年を重ねることは辛いだけではない――
生き方について考える物語

その方は90歳まで娘家族の為に台所に立ち調理をされていた方でした。
両下肢筋力が低下しないようにリハビリにも通い自身の体を維持していたのですが、ある日外出時に転倒し怪我をしてから痛みが続きすっかり自信を失ってしまったのです。

以前のように自分でできる事ができなくなったことで、精神的にも落ち込んでおり生きる気力を無くしてしまったのです。

若い時は体に心を合わせて動いているのですが年を重ねるとできない事が増え、体に心を合わせ自分の心の折り合いをどうつけたら良いのかわからなくなるとの事。

その方の話を聞いていて、ドイツ出身の神経学者ルートヴィヒ・ゴッドマン「パラリンピックの父」と呼ばれた方の言葉を想い出しました。「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」と・・・

年を重ねる事は辛いことです。ただ、できることも沢山残っています。
そして、自分が失ってみてわかることがあります。人を想いやる優しい気持ち・・・それは自分の心だと・・誰にも阻害されはしません。

いくつになっても心だけは豊に感性を磨き続ける生き方ができればと想います。

エピソード89 愛するがゆえの苦しみ――
言葉の力について考える物語

その方は去年ご主人を亡くされ、未だにお会いする度にご主人を想い出され涙を流されていました。

そんな時自宅での不思議なことが起きたとの事。飼っている犬が突然ドアに向かい鳴き始めたり、夜同じ時間になると部屋の一点を見つめ身じろぎもせずに立ち止まったりと・・・

その方曰く、あまりにもご主人をを想い出し泣いているので、ご主人が飼い犬を通して「ここに居るよ。毎日君を見守っているから心配いらないよ」と言っているように思えると話されていました。

最愛の人を亡くした喪失感・・もう二度と会えない・・声を聴くこともできない・・愛しい人のぬくもりも感じられない・・

以前「愛別離苦:あいべつりく」という言葉を聞いた事があります。愛するがゆえの苦しみ・・

人は必ず愛する人たちとの別れがやってきます。乗り越える為の方法があれば・・

そんな中子供たちが、その方に言った言葉は「お父さんは居なくなっても僕達がいるよ」と。心が弱っている時の優しい言葉こそがその方を救ってくれるのではないかと想いました。

私自身いつも、一人一人のご利用者様へ辛い事が起きた時に心が軽くなるような温かいことばをいつも探しているような気がしています。

エピソード88 「死」は「生きる事」――
最期の場所について考える物語

その方は、白血病と診断され病院で抗がん剤治療を行っていましたが自宅へ戻りたいとの思いが強く奥様がいる自宅へ戻った方でした。

奥様から自分のベットへ戻ったら安心したようですとの話がありましたが、長年暮らした自分の家へ戻ることの意味・・・
聞きなれた生活音、家族の声やペットの鳴き声等、入院経験のある方だと分かると思いますが、懐かしい音・・匂い・・全てが愛おしく感じる瞬間だと思います。

そんな中トイレへもやっと行っていたのですが、排泄も困難になってきた次の朝、奥様が気が付くと永遠の眠りについていたとの事。
お悔みに訪問するとご家族さまが居て「きっと父は母に負担を掛けるのが忍びないと思い旅立ったんだと思います」と話されておりました。

今生の別れの時に家族に辛い思いをさせたくないという心が働いたと想います・・・
最期の瞬間まで我が家で暮らすことの素晴らしさはわかっていても、悲しいことです。
「死」は「生きる事」以前誰かから聞いた言葉を思い出しました。

エピソード87 いつか必ず訪れる別れ――
家族の絆について考える物語

その方は、私がケアマネになり立ての頃に出会った素敵な方でした。
息子さんや娘さん達3人と一緒に暮らしており、お母さまの好きなものを毎日作っては喜ぶ笑顔を見るのが生きがいだと話される素晴らしいご家族でした。
今年、101歳の誕生日を迎え、ご家族様たちにお祝いをしてもらった時に大好きなお蕎麦を沢山食べたとのお話を聞き幸せな気持ちになったものでした。
そんな中10月下旬から食欲が低下してしまい、息子さん達がりんごのすりおろしやアイスクリームを口に運びかいがいしく介護をされていたのでした。何度も危篤状態から復活したこともあり、唯々ご本人の気力を信じ介護していたのです。
亡くなる2日前に私が訪問した時は「私を病院へ連れて行かないでください。ここに居たいの」と何度も訴えていたのです。「どこへも行かせないですよ。大丈夫。心配いらないですよ。」と言うのが精一杯でした。
息子さんから「息が止まってる」と言う連絡にご自宅へ駆けつけると担当医が来ていて「ご臨終です」とのこと。眠っているような静かなお顔でした。
お疲れ様でしたと声をかけたのですが涙が零れて止まらなくなったのです。生まれてきた以上最後は大好きな家族とも別れなければならない・・
分かってはいても悲しいことです。愛して已まない子供たちとの別れ・・
子供たちの最後を見届けたいと思うのが親心だと話されていたことを思いだしました。

エピソード86 歳を重ねることは、失うことだけじゃない――
家族について考える物語

その方は、先日106歳のお誕生日を迎えた方です。利用している施設での誕生日会に私も出席させて頂いたのですが、ケーキをペロリと食べてしまい、次女さんに「可愛いね」が合言葉、とてもチャーミングな方です。

お若い頃女学校時代はセーラー服を着ていたとの事。まさに漫画の「ハイカラさんが通る」を地で過ごされ卒業したのでした。以前は人が分からない文字を書くのが好きと話され、英語や変形かな文字をいつも書いて下さっていたのでした。

銀座の電通で日本髪を結いお着物姿での写真を見せて下さいました。ご主人を57歳で亡くし女手一つで三人の子供さん達を育て、今は次女様のご家族と一緒に過ごされております。

次女様のご主人も素敵な方で何時も「家のおばあちゃんは凄い人で大した人ですよ」が口癖で自宅での介護もご主人と次女様二人三脚でトイレまで誘導したりしている方です。

足立区では106歳(男性1名・女性1名)107歳(男性1名・女性2名)らしく、次女様が、目指せ!足立区長寿一番と話されていたのが印象的でした。

年を重ねる事は一つずつ何かを失うことでもありますが、失うことよりも得るものも沢山あるのだと、素敵な家族と一緒に生きる「きくさん」を見て想いました。

エピソード85 何歳になっても努力を惜しまない――
生き方について考える物語

その方は、奥様を亡くしてから一人で暮らしていた方でした。初めてお会いした時は全身の痛みの訴えが強く、椅子から立ち上がるのも一苦労という動作でしたが、人に迷惑を掛けるのが嫌だと、洗濯など時間をかけて自身で行っておられました。
通所介護を利用するようになり施設での運動を人一倍行っている間に体力が徐々に回復し、椅子からの立ち上がり時もすくっと立ち上がったのには驚きました。高齢である事に甘んじずに努力を惜しまない姿に頭が下がる思いでした。

ある日の事、私が訪問すると自分の事を書いたメモを見せてくださいました。その文章の中の「油」の意味は介護に携わっている私たちのことを示しており感謝に絶えないとのこと。

以前、娘さんがアメリカの方と結婚し会いに行く為に英会話教室に通い、英語の勉強をし会話ができるようになったとのこと。毎日新聞を読んで分からない英語の単語を電子辞書で引くのが日課になっていると話されておりました。

福祉の世界でもケアマネの代わりにAIを導入する検討もあり、現に通所介護においては今回の法改正で「科学的介護推進体制加算」を付けたりしていることを見据えての文書に感じ入りました。

何歳になっても学ぶことや努力を惜しまない姿に自分を照らし合わせ、毎日、惰性に流されずに未来へ向けての備えをしなければならないと心に誓いました。

エピソード84 大切な人との思い出――
亡き人を感じる物語

その方は、ご主人を亡くしてから1年がたとうとする方でした。生前ご主人の話した言葉一つ一つを思いだすとの事。

季節が巡る日々に昨年は生きていたことを重ね合わせ、ご主人の想い出だけは消しはしないと涙を流されていました。

両親と暮らした年月よりも長く、結婚してから何十年も「生活」という戦いの中で助け合いながら暮らしてきた人生。いつもご主人が傍にいて助けてくれた、そんな暮らしがいつまでも続くと思っていた。

一緒に居た時間よりも、居なくなってからの方がより一層色濃く想い出が鮮明に脳裏に浮き上がってくると。部屋の中でご主人の気配がする時が度々あると話されていたのです。

以前、私も知り合いに霊が見えると言う人がいて「貴方の後ろで若い男性(私の父だと思われる)が貴方に向かって、こんなに話掛けているのに聞こえないのか」と言われ驚いたことがありました。

スピリチュアルな現象・・・大切な人は何時も傍に居て守ってくれているのだと信じたい気持ちで一杯になりました。

エピソード83 終戦からわずか74年――
平和について考える物語

その方は、戦時下、嫁と孫三人で錦糸町に住んでおり息子は軍隊に召集されたとの事。東京大空襲の時に嫁と孫を防空壕に入れ上から重しを載せたところ、余りのB29の爆音に防空壕の中から嫁が出してくれと蓋をドンドン叩くので出し、逃げたとの事。
空襲の中を逃げる時、B29が自分の真上で爆弾を投下した時は当たらないが前方で落とすと方向を変えながら逃げなければならなかったとの事。

そんな中三人で逃げ惑っていて、余りの暑さに川へ飛び込もうかとも思ったが、錦糸町公園に逃げ込んだとの事。錦糸町の駅が爆撃で燃え紙幣が公園の網に引っ掛かり揺れていたとの事。私が「お金を拾わなかったんですか」と聞くと「お金どころではなく嫁と孫に火傷を負わさないように、ヤツデの葉で火の粉を追い払うのに精一杯だった」と話されました。
次の日焼け野原になった自宅を目の前にし、愕然としたとの事。
防空壕の中や川に飛び込んで亡くなっている人達・・・食べる物も無く米屋の焼け跡にあった黒くなった米を拾い集め食べたとの事です。

その方が「戦争というのは人が人を殺すこと、二度と起こしてはならない」と言われておりました。

終戦から74年が経ち、戦争体験を次世代へ継承する事業が盛んに行われておりますが、原爆が投下され今も苦しんでいる方々がいるのが現実です。親やご利用者様からの戦争体験を、ゲームや映画の世界での戦争しか知らない次世代へ伝承していかねばならないと感じております。

エピソード82 亡くなるという意味――
人の想いについて考える物語

その方は、昨年暮れに体調を崩し入院し末期の肺がんを診断された方でした。今年1月末に退院した当初は体調を持ち直し、抗がん剤治療を受けて好きなパソコンも自宅で行っていたのです。

そんな時、急に6月中旬に左肺に転移し、担当医より「会わせたい人がいれば、すぐに会わせた方が良い」と言われ、友人や親せきに会わせたとの事。毎日みるみる間に悪くなり、ベット上の生活となってしまったのでした。

奥様はご主人を「殿」と呼んでいて、ご主人の枕元で以前二人で旅行した世界中の懐かしい話をしていたのが印象的でした。そんな時、奥様が見守るなか息を引き取ったのでした。

お悔みに訪問すると奥様から「主人が居なくなってから自宅の中でいつも主人の陰影を追いかけている自分に気が付き、涙を流し・・・無意識に主人に話掛けようとしては居ない事に気が付き涙を流す・・・」と話され泣かれておりました。

亡くなるという意味・・亡骸はなくなってもいつも奥様の隣で見守っている。見えなくても話しかければ通じている。これからはご主人が生きられなかった分まで生きることが、ご主人と生きる事になると思うと伝えました。

ご利用者様との別れや残されたご家族の想いを聞く度に人は死なないのではないかなという思いに駆られます。

エピソード81 なぜ人生に終わりがあるのか――
人の一生について考える物語

その方は、昨年ご主人を亡くされ、今も自宅でご主人の陰影をさがしておられる方でした。

ご主人は「フーテンの寅」をこよなく愛していたらしく、寅さんの映画をお正月には毎回観に行ってらしたのです。その度に寅さんの言葉は生きる力があると笑ったり泣いたりしていたとのこと。

なかでも「ああ生まれてきて良かった。そう思うことが何べんかあるだろう。そのために生きているんじゃないのか。そのうちお前にもそんな時が来るよ。な?がんばれ」いまさらながらに聞いてみると意味深い言葉だと思うと話されていました。

最愛の人を亡くした悲しみ、辛さ、二度と戻ってこない現実に打ちひしがれて涙が零れる日々・・・ご主人の代わりはいないことに気が付き、それでも前を向かないと心が折れそうになると・・・

何故人間は死ななければならないのだろう。そんな時に思うことは、子供たちには、同じ悲しみをさせたくない。叶わないことだけれど、今度は子供たちの人生を見届けたい・・・守りたい・・・と思うと話され泣いていました。

ひとりひとりの人生の終わり方、あとに残された家族の想いに胸がいっぱいになりました。

エピソード80 もっと優しくできなかったのか――
旅立った母を思う物語

その方は、呼吸器疾患に罹患され長年自宅で在宅酸素療法を使用してきたかたでした。娘さんとご主人と助け合いながら暮らしておられました。

昨年ご主人が癌を患い他界され娘さんと二人になりましたが、自宅でも娘さんの姿が見えないと不穏になり、一時も離れられない状態でした。

そんな中、自宅で転倒しベット上の生活となりましが、娘さんが一人で介護されていました。他のサービスを提案しても「母が嫌がるから」と頑張られていたのです。

今月に入り呼吸器疾患が悪化し緊急搬送され、病院側の配慮で近くのホテルに泊まり、数時間だけ病室に付き添っていましたが、ご主人の元へ旅立ってしまったのでした。

葬儀が終わり自宅へ戻った時に娘さんより連絡があり、お母さまが使用していたベットも回収してしまうと寂しくなってしまうので暫く置いておいて欲しいとの事。「なぜ、私は自宅での介護の時に母に優しくできなかったのか悔やまれて仕方ない」と泣かれておりました。

介護とは終わりの見えない洞穴に入ってしまったような境地になるものです。そのなかに居る時は、精一杯な介護をしていたのだから、自分自身を責めてはいけないと思いますよと伝え涙が零れました。

いつもご利用者様のお別れの時に思うことは、お一人お一人の生きてきた人生や素敵な笑顔を決して忘れない。

そして・・・また、いつの日か再会できる日を・・・

エピソード79 安心して暮らせる社会を――
在宅介護について考える物語

その方は担当医からの一報で急遽訪問致しましたが、息子さんと二人暮らし、2~3日前までは、ご自身でトイレへも行けたらしいのですが、私が訪問した時は全く身動き取れずにベッドに横たわっていました。

息子さんもどうして良いのか分らずに戸惑っていたのが印象的でした。息子さん曰く、担当の包括にも相談に行ったとの事。急な状態の変化に対応が間に合わなかったらしいのです。

次の日より訪問介護、訪問診療と連携を図り対応していたのですが、そんな3日後の事・・・朝訪問した提供責任者より反応が悪いとの報告に緊急搬送致しましたが、昼過ぎ息を引き取ったのでした。

お悔みに訪問すると息子さんより「こんな事になるとは思ってもいなかった。直ぐによくなると思っていた」と泣いておられました。

これだけ在宅介護、医療、地域包括支援システムと叫ばれる中、一般の方々は、どこに相談に行き、どんなサービスが受けられるのかさえも知らない事に驚きました。

地域の人達が安心して暮らせる社会を作る難しさ・・・胸が一杯になりました。

エピソード78 年を重ねるということ――
人生について考える物語

弊社介護職として携わった方々は数知れませんが、年を重ね、今まで自身で出来たことができなくなっていく・・・

年を重ねる事は一つずつ何かを無くすことだと思います。自分でできないもどかしさ・・人に頼まなければならない悔しさ・・頼んだことを待つ歯がゆさ・・

誰しもが年を重ねた時に思うことです。自分が年を取ることなど若いときには想像だにしていないのが現実です。

そして最愛の人達との別れ・・毎日最愛の人の顔を想い出しては涙が零れる日々・・あの時に何故最愛の人にもっと愛情を持った言葉を伝えなかったのか・・もう一度最愛の人を抱きしめたいと心から願うばかりだと思います。

ナイチンゲールが世界を平和にしたいなら身近な人を愛しなさいと言った通りに、まずは自分の近しい人たちに感謝を伝えなければいけないと思います。明日伝えるのでは遅いのです。今伝えなければ、自分の大切な人は何時までも居る訳ではないと感じます。

介護職として関わらせて頂いた方々の事をいつも思い出す事がお一人お一人が生き続けることだと考えます。

エピソード77 何かできなかったのか――
最期の瞬間について考える物語

その方は、視覚障害をお持ちの方でしたが、ガイドヘルパーさんと一緒に毎日スポーツジムへ通っており体力だけには自信があった方でした。

お逢いするといつも息子さんやヘルパーさんへの感謝の言葉を伝えて下さり、視覚障害がありながらも自身でできる事は行っていたのです。

そんな折、デイの職員から利用予定なのに連絡が取れないとの連絡が入り訪問してみると応答がない為、救急隊を呼んだところ、室内で亡くなっておれらました。

前日ヘルパーが訪問した時には異常はなかったことから突然のことだったと推測されます。

コロナ禍の中、一人暮らしの方々が孤独に目を閉じる・・・介護職として何かできなかったのかという思いが巡ってしまいました。

地域支援システムが叫ばれる中、地域の方々と一緒に孤独な最期を迎える方を減らす努力をしなければならないと考えます。

エピソード76 また逢いましょう――
家族とのお別れの物語

その方は、肝がんと診断され今年になって急に動けなくなった方でした。
奥様は膝が悪くご主人が元気な頃は買い物や掃除等全てご主人が助けてくれていたとの事。

介護保険を使わざるをえない状況に涙されておりました。最近まで元気にされていたこともあり今の状態を受け入れるのに子供さん達も戸惑っていたのです。

そんな中15日余りで息を引き取ってしまいました。お悔みに訪問すると息子から奥様に言われた言葉が「じいじが見たくても見られなかった未来を生きている俺たちが見なければいけない。」と・・・。

戻らない幸せな時間があったことをご主人が教えてくれたと思うと泣いておられました。

生き残った家族の辛さ、生きたくても生きられない人の思い・・・。亡くなった人の事を思い出す人が居る限り家族の中でその人は生き続けると。

私が何時も掛ける言葉は、「さよならではなく、またお逢いしましょうね」
先人の教えのように人は亡くなっても必ず再会できることを願ってやみません。

エピソード75 感謝の言葉――
家族との最期の物語

その方は、前回の広報誌に載せて頂いた肝硬変末期の方の最期のお別れに訪問した時のことでした。

最期はご家族様でオムツ交換をしたり対応されていたとの事。浮腫で呼吸が苦しい中、奥様へ「つらい思いをさせてごめんね」と言われた時に奥様が掛けた言葉は「大丈夫だよ」としか言えなかったと話されていました。

テレビのドラマのように、ご主人に感謝の言葉を掛けられなかったと。息を引き取るまで悟られないように励まし続けるしかなかった・・・。

なぜ、ご主人が感謝の言葉を言い続けているのに「いままでありがとう」と言えなかったのかと悔いておられました。息を引き取った後に何度も何度も亡骸にキスをしたり、感謝の言葉を掛け続けましたが、届かない・・・

人は亡くなると本当に口がきけなくなるんだと実感しましたと。

奥様から「これからは、主人の幽霊と一緒に暮らしていきます」との話を聞いて素敵なご夫妻だったんだと涙が零れました。

自分の家族を看取る悲しさ、辛さに少しでも添えた介護ができたのかと自分に問いかけてしまいました。

エピソード74 魔法があったなら――
気持ちに寄り添う難しさを考える物語

その方は、自分の母親を自宅で看取った経験のある方でした。今度は自分のご主人が体調を崩され、今年の5月に肝硬変と診断され10月には入院となり退院されましたが、自宅で看取ると覚悟を決めていたのでした。

しかし日増しにご主人の身体は浮腫に侵され利尿剤を投与しても引くことが無くなっていったのです。

どうにかトイレまでは移動していましたが移動する度に息切れが酷く「苦しい楽になりたい、治るのかな」等の苦しい言葉になんと答えて良いのか分からないと話されていました。

身内を介護する悲しさ、辛さ、治らない人に対して励ます言葉を教えて欲しい。魔法があったら、神様が居るのなら助けて欲しいとの訴えに涙が零れました。

辛いと思いました。そんな利用者や家族の気持ちに添う難しさ・・・

介護職として何ができるのか。考えさせられました。少しでもご家族の気持ちを和らげるような言葉を自分の中で探し続けていました。私にも魔法が使えたら、神様にお願いができたら、と真剣に考えてしまいました。

エピソード73 誰かが手を差し伸べる――
生き方に思いをめぐらす物語

その方は、広島の原爆被害者の方で原爆撲滅の運動を自ら行い発信していた方でした。

以前にも弊社の広報誌に原爆体験の手記を心良く載せて頂きました。原爆投下の日、がれきに埋もれ気を失っていた時に父親の断末魔の声に目が覚め逃げた事や逃げる途中、小さい子供が助けを求めていた時に見捨てた事も今も夢の中で後悔を続けていた方でした。

そんな辛い過去を持ちながら、何時も奥様を思い続けていたのでした。体力が低下していたにも関わらず今年の広島の慰霊祭に参加をされ「これで思い残す事はない」と言われておりました。

最後まで奥様と二人で暮らしていましたが夜中に喉が渇いたとの訴えに奥様が水を飲ませてあげた時「ありがとうね」と息を引き取ったのでした。

奥様が何時も「誰かが手を差し伸べれば幸せになれる人達が沢山いるのよ」と仰っていた事が頭をよぎります。誰か・・・介護職は、そんな存在であらねばならないと思います。

エピソード72 安心して過ごせる場――
安らかな最後の物語

その方は、娘さんと要介護者の妻と三人で暮らしている方でした。大腸がんに罹患しているにも関わらず、娘さんが働いている間、病弱な妻を労りながら介護をしておりました。

抗がん剤治療の為何度も入退院を繰り返しながらも、訪問すると何時も笑顔で冗談を言っては周りの人達を和ませてくれました。

少しずつ病気が進行しベット上で過ごす時間が長くなった時も、自分が辛い状態なのに娘さんや妻の心配を続け、笑顔を絶やさなかったのが印象的でした。

往診の先生や訪問看護が連日訪問して診ていましたが危篤状態と何度も宣告されても、ご本人の気力と生きたいとの意欲が命を繋げていたのだと思います。

最期は娘さんが添い寝をした次の朝静かに息を引き取ったのです。

「辛かったと思いますが弱音を吐く事もなく先生や看護師さんが来ると楽しそうに話していました。最後は安らかでした。」と娘さんから話を聞きました。

ご本人が安心して過ごせる場所で看取ることの大切さを感じました。

エピソード71 介護とは何か――
介護と医療、連携の物語

その方は、息子さんと二人暮らしでしたが、認知機能が低下傾向にありオムツ交換に毎日訪問していた方でした。

こんな表現は失礼かも知れませんが、とてもチャーミングで訪問するヘルパーが排泄介助を行う度に「ありがとう。とても気持ちいいよ」と繰り返し言っていた方でした。

そんな中少しずつ食欲も低下し水分も摂れなくなり毎日点滴をしていました。ヘルパーが少しでも経口から摂取できないかと口へ軟食を運んでいたのです。

訪問診療や訪問看護からは余命宣告をされておりましたが、介護職、医療職の連携が功を奏した結果、驚く程、命を繋げていました。

最後まで「ありがとう」を繰り返し言い続けていた方でしたが静かに目を閉じたのです。自宅で看取る悲しさ、辛さに寄り添う。

介護とは・・・一人一人の人生の最後に全力で色々な職種が力を合わせる事だと考えます。

エピソード70 医療職と介護職――
同じ立場で利用者様に寄り添う物語

その方は認知機能が低下傾向にあり病院を退院した方でした。高齢の妻と息子さんの三人暮らし。娘さんは他県に住まれており訪問されておりました。

訪問看護、訪問診療が週に何度か訪問しておりましたが、自宅での生活が少しずつ困難になりつつありました。食事や水分を摂ることが難しくなり同居の奥様も介護負担が大きくなり娘さんが頻繁に訪問していましたが改善には至りませんでした。

そんな中、訪問診療の担当医から突然の連絡があり、在宅での介護量についての相談があったのです。「介護保険サービスの支援内容は余り分かりませんが・・・」との話・・・正直私もケアマネ経験が短くありませんが訪問診療の担当医からの正直で真っ直ぐな相談は初めてでした。

誤解のない上でお話ししますが、たいがい担当医は全て知っていますが何か・・・から始まります。医療職に介護職が臆してしまい相談できないのが現実です。しかし、その担当医の先生は家族が今困っている事、どんな事が介護保険サービスで補えるのかを聞いて下さいました。地域ケアネットが叫ばれる中、在宅医療と介護保険が同じ立場で利用者様の事を検討できる環境、素晴らしいと胸が熱くなりました。お互いの立場や役割を果たし、ご利用者様に寄り添う介護・・・私達が目指す介護です。

エピソード69 介護職は「最後の砦」――
安心して暮らせる社会を考える物語

弊社の訪問介護、ケアマネジャー、デイサービスの職員もコロナに翻弄されている毎日ですが、全国の介護職の方々も同じだと思います。

医療従事者の方々も命を向き合う仕事ですが、介護職も利用者様と密に接することを避けられない職業です。

感染の危険があったとしても、自宅で寝たきり独居の方が熱を出していれば、訪問して手当をしなくてはならないこともあります。

この職業に従事している方々は信に介護職を愛してやまない人ばかり、介護職は「最後の砦」と言われるくらい過酷な命の現場だと感じております。

今回のコロナウイルスの事を通して、高齢者社会において弱い人達が少しでも安心して暮らせる社会の構築はまだまだだと思い知らされました。

困難な社会情勢だからこそ、介護職に何ができるのかを官民一体となって真剣に考えなければならないと考えます。

エピソード68 命の危機に瀕しても諦めない――
復活の物語

その方は私がケアマネに成りたての新人の頃に出会った方でした。以前は薬剤師に従事しておりキャリアウーマンだったそうです。

骨折、脳梗塞、水頭症、嚥下障害等の数々の病気が襲ってきましたが、その度に、驚くような回復をしてきた人です。骨折をした時も医師からは歩行は困難と診断されても歩き出したのです。

不謹慎ですが娘さんと顔を見合わせて「凄い回復力ですね」と大笑いした事が懐かしく思いだされます。

介護していた娘さんも意識が高く、一時オムツ交換になっても娘さんがトイレへ誘導して排泄を何度も試みて綿ショーツにパットに変えたのです。車椅子からベットへの移乗時も自身で行い、日記を書いたり、計算をしたりと根気強く関わられておりました。

何度も命の危機に瀕しても諦めずにお母様と向き合った姿は並大抵の努力ではなかったと思います。娘さんの口癖は「私はチャレンジャーなのよ」でした。

今回4月半ばから血中酸素も低下し始め意識が途切れたりしていましたが今までの復活劇を信じていた私や娘さんは望みを捨てる事ができませんでした。そんな状態で迎えた、母の日孫や娘さん達に見守れる中旅立ってしまったのです。最後まで一緒に歌を口ずさんでいたとのことでした。人生の最期をどう迎えるか・・・素敵な幸せな時だったのではないかと考えます。

お一人お一人の人生に関われる介護職を誇りに思います。

エピソード67 利用者さんの最後に立ち会う――
感謝の物語

その方はご主人を二年前に末期の癌で亡くされ娘さんと二人で暮らしていた方でした。

通所介護や訪問介護を利用していましたが、両下肢筋力が低下傾向にあり自宅で何度も転倒を繰り返している内に右上腕を骨折、ベット上の生活となってしまったのでした。

認知機能も低下しておりましたが娘さんが昼夜問わずに、かいがいしい介護をしていたのです。

そんな折、前日まで元気に話をされていましたが次の朝突然意識が無くなってしまったのです。訪問診療が駆けつけましたが今日中との余命宣告、東北に居た長男が自宅に着くのは四時間後との事。

私も午前中に訪問し、ご本人様へ「息子さんが今向かっているから待ってて下さいね」と娘さんと何度も声を掛けたのです。娘さんは泣いておられ「最後まで安心できる声掛けをして欲しい、お母様は聞こえているからね」と言うのが精一杯でした。

そんな日の午後娘さんから「息を引き取りました」との連絡に訪問すると息子さんもいらっしゃいました。息子さんが到着して、玄関のインターホーンを押した時に「お母さん、お兄さんが来たよ」と言うとうなずいたものの部屋に着くと息を引き取っていたとの事。親子の絆は意識が無くても繋がっていたのだと思いました。虫の息でも息子に会いたいと言う思いが成した奇跡。生まれてから、その方が人生を終わらせる時に全ての生きざまが集約するのではないかと思います。

いつも思うことは、介護職として利用者お一人お一人の最期に立ち会うことができた事への感謝です。

エピソード66 一人ひとりができることを考える――
見えない敵に立ち向かう物語

今、世界規模での感染症コロナウイルスが蔓延しております。ウイルスに対する対応は医療側の問題となりますが、私達個人レベルで考えると一人一人ができる事を考える事が重要だと思います。

何ができるか・・・ 外出を控える事、手を洗う事、うがいをする事、室内の換気に努める事など身近でできることを実践していくことしかないかと思います。

目に見えない敵に対する恐怖は皆同じだと思いますが流言飛語に惑わされず、落ち着くことが重要だと考えます。

国民一人一人が冷静になり、インフルエンザやコロナウイルス等未知のウイルスに気持ちで負けてしまわないようにする事です。

そして、この事を糧に、人類が考えなければならない事は国と国の争いや隣人とのいさかいは虚しいことだと言う事を自分自身に戒めることです。

以前、ナイチンゲールが世界を平和にするには、まず自分の家族を大切にしなさいと言ったように、まず、自身の心の中にいる恐怖を払拭し、日本人特有の礼節や大和魂を思い出し、今こそ見えない敵に立ち向かうのです。

気持ちで負けてしまっては本当の意味でのウイルスに対しての敗北です。介護職の職務を全うする為にも強い信念が必要だと改めて感じています。

エピソード65 退職する職員との別れ――
仲間への想いに満ちた物語

毎年4月は門出の春・・・弊社の職員も家庭の事情で退職する人があります。新しい職員が入社したとしても、出会ったからには別れは必ず来るものです。

寺山修二の小説やエッセイにもあるように「花に嵐のたとえもある。さよならだけが人生だ」の一説が有名ですが、訳は「さよならだけが人生であれば、今この時間を大切にせねばならない」らしいのです。

一旦繋いだ手は絶対に離さないといつも思っていますが、仕事だけではなく一人一人の家庭の事情があり複雑に絡みあってしまうのは仕方がないことではありますが、別れることは辛く悲しいことです。

ただ、退職しても何処の事業所よりも介護に対する姿勢は熱く、常に利用者様の事だけを考えているサンライズを忘れずにいて欲しいと思います。

働き方改革が叫ばれる中・・・介護は、待ったなしの命を預かる現場であることから理想と現実の狭間で私も含め職員達も苦しんでします。

介護職の現場や地位の改善を切に願うばかりです。

エピソード64 人生の終わりを迎える時――
最期に寄り添えた物語

その方は私がケアマネになった当時から関わっていた方でした。自営業で不動産会社を経営しておりましたが、認知機能が低下し自宅で娘さんが看ていたのでした。

何度の感染症に罹患して命を取り止めていましたが、昨年自宅で転倒し大腿骨転子部を骨折し保存的治療の為自宅で手厚い介護を受けておりました。

昨年から一切の経口からの摂取が困難となりました。1月に入り血圧が低下傾向にあるとの連絡が娘さんより入り訪問すると虫の息の中、声掛けに目を開けておりました。娘さんの「私のために、頑張って生きているんですよね」と言う言葉に胸が詰まり「そうですよ。娘さんを一人置いていくのが心配で頑張っているんですよ」と言うのが精一杯で涙が零れました。

そして訪問した当日3時間後に息を引き取ったのでした。手前勝手な思いですが、私を待っていたのかと思いました。

最期のお悔みを言う為に訪問すると、娘さんからお父様の洋服や寝具など誰かの役に立つのなら貰って欲しいと言う申し出を受けることに致しました。

娘さん曰く「父が居なくなっても遺品が他の誰かの為に役立つかと思うと父が誰かの中で又生き続けるような気がします」との話に感銘を受けました。又「井上さんが毎回訪問した時に言っていた言葉は本当だった。父の介護は大変でしたが介護している時が本当は一番幸せだったんだ」と言われ・・・涙が溢れて止まらなくなってしまったのです。

誰もが人生を終わりになる時、そして残された家族の思い・・・ そんな方々に最後まで寄り添えたことに誇りを感じました。

エピソード63 伝わる気持ち――
言葉の壁を超える物語

先日弊社の通所介護へ手伝いに行った時のこと・・・

認知機能が低下傾向にある方で意思の疎通もままならない方がいらっしゃり、何度話掛けても無言でした。機械浴で入浴後のこと・・・(着脱時も拒否がありましたが)「〇〇さん、気持ち良かった?」との職員の問いかけに「うん」と答えたのです。「え~!話ができるんだね」との問いに今度はケラケラと笑い出したのでした。私もびっくりして職員と二人で大喜びしたのです。「笑ってる。笑ってる」と二人で言いながら涙が零れてきました。

その職員の話で、先日もろうあ者の方が通所され小さい頃から手話も習っていないとの情報があり、ホワイトボードに「あなたの気持ちが知りたい」と職員が書くと、その方が次の日に自宅にある手話の本を持って来て話始めたとの事。

年を重ね認知機能が低下していたとしても、人間の気持ちを伝えるのに言葉はいらないと思いました。お一人お一人への接し方や介護職としての熱い気持ちさえあれば、どんな人にも気持ちは伝わると、その時に確信致しました。自宅では見られない素晴らしい表情を引き出し、その方のお気持ちに添えるような通所介護でありたいと考えます。

エピソード62 家族以上に固い絆――
生き方に思いをめぐらす物語

その方は、末期の癌と診断され病院での治療を拒否しパジャマのままで自宅へ戻ってきた方でした。

はじめてお会いした時に室内を丁寧に掃除されていました。「この部屋を汚さずに、此処で死ぬんだ」と言った言葉に、自分の最期への覚悟を宣言したように聞こえました。

身よりはいませんでしたが、長年の友人が食事を作って持ってきたり入退院時の手続きをしてくれたりと親切にされていました。その方にどんな関係なのか聞くと「こいつは良いやつなんだよ。元気な頃は俺に食事を作ってくれたんだよ」長年積み重ねた友情は誰にも真似できないような堅い絆で結ばれていたのでした。

ある日、友人が自宅で風呂に入れてやりたいと階段を担いで自宅へ連れて行き入浴をし夕食、朝食を食べ帰宅すると急変し、意識が無くなってしまったのでした。入院も考えましたが「此処で」とのご本人の意思を尊重し在宅で看取ることとなったのです。

毎日毎日友人の方が来ていた中、訪問看護が訪問すると息を引き取っていたのです。友人の方も駆けつけてくれましたが何度も何度も顔を擦って「お前のことは忘れないからな」と号泣されているのを見て私も涙が止まりませんでした。家族以上の友人との絆・・・その人が生きてきた証・・・

私たちも自分の生きざまを今考えなければいけないと思いました。

エピソード61 今、私たちにできること――
対策の必要性を痛感する物語

先日10/12の大型台風到来時のこと。各区からの緊急警報が携帯や広報車でアナウンスされましたが、弊社でも各利用者からの問い合わせに翻弄されておりました。
「避難勧告や警報が発令されても逃げられない」「川が氾濫したら1階でベット上に寝たきりの夫をどうしたら良いのか」「どこに連絡すれば助けてくれるのか」「車椅子で避難所へ行っても エレベーターがなかったら2階に行けないのでは」等々の質問・・・考えさせられました。

以前緊急時に医師がトリアージュ(患者の重症度に基づいて治療の優先度を決定すること)する時の思いを聞いた事がありました。まだ息をしている人達を見放し生きられる人から救っていく時の虚しさ、悲しさ・・・

地震など予測不可能な天災もありますが、台風などの予測可能な事態の時の対策(緊急時の対応)官民一体となって早急に考えなければならないと思いました。対策を講じなければ、要介護者の人達はテレビから「命を守る行動を取って欲しい」と言われても自身ではできないのです。

誰かが考えるのではなく、私達一人一人が声を上げ行政や地域に訴える事が、今回の災害で命や財産を失った方々に報いることに繋がるのではないかと考えます。

エピソード60 大切なのは、”本人の意思”――
家族の絆を想う物語

その方はご主人を亡くされ独りで暮らしていた方でしたが、突然難病である進行性核上性麻痺に罹患され、自身で起き上がる事もできなくなってしまったのでした。

遠方の娘さんが頻繁に訪問し介護をされておりましたが、誤嚥肺炎を何度も繰り返していたのです。昨年退院時に担当医からは経口からの摂取は難しいので胃ろうにしたらどうかと診断されました。娘さんは以前からお母様が延命処置を拒んでいたこともあり、もう一度、自宅へ戻りお母さんの好きだった麺類を食べさせたいとの意向により退院当日に訪問歯科に嚥下の評価を行って貰いました。

その時の担当医の医師の言葉が印象的でした。「スコープで確認したところ飲み込む力はあるが食べさせるのも食べるのも命賭けですね。在宅なので娘さんやご本人の意思が最優先されます。好きな物を最後まで食べさせたいと思うなら、各サービス事業所に娘さんより、起因する障害についての同意書を貰いなさい。お互いの為にも安心ですよ。」と・・・そんな中次第に体力は低下していき、発語もない状態になっておりましたが最後まで大好きだった麺類を食べて頂いたのでした。

そして最期の日、娘さんや親戚の方々が見守る中ご主人の元へ旅立っていったのです。在宅での最期をどう過すか・・・元気な内にご本人やご家族が決める切なさ・・・辛いことです。今まで何十人もの方々の最期に立ち合い、最愛の人達との別れに際し流された涙を忘れないことが私達介護職の使命だと考えます。

エピソード59 難病に立ち向かう夫婦の姿――
社会資源の不足を感じる物語

その方は奥様と二人暮らしで余生を謳歌しておられました。

しかしある日ご主人様の様子に異変が起こり、主治医よりレビー小体型認知症を診断されたのです。

内服治療をしながら介護保険サービスを利用されていましたが、状態は悪化する一途・・・

幻視や幻聴が出現し「誰か子供が居る」「虫が沢山いる」等の発言、そして身体機能も低下してベッドから自力では起き上がれない状態になってしまったのです。

そんな時奥様も難病に罹患、バセイド病と診断されてしまったのでした。
奥様も疲れ果て「二人で死んでしまいたい」と泣き崩れてしまいました。
「大丈夫、私がついてる」と言うのが精一杯でした。

経済的にも困窮しており介護負担を軽減することができない利用者に対しての社会資源が不足しているのが現状です。
孤立したご家族様が安心して生活ができるような共生社会を作らねばならないと考えます。

エピソード58 人生の先輩との出会い――
平和な未来を願う物語

その方は高齢ですがいつも前向きでお会いすると元気を貰えるような方です。私の亡き父と同じ年齢でした。

大東亜戦争の時、私の父の兄が兵隊へ召集された時に「絶対に志願して戦争に行っては駄目だよ」と言い聞かされていたにも関らず16歳だった父は兄の言いつけを守らず海軍へと志願したそうです。若かりし時の父の海軍の写真はいつも隊長の横に鎮座しておりました。

その方も志願して戦地へと行ったとの事。連合艦隊指令長官だった山本五十六氏と一緒だったそうです。
戦艦大和にも乗船していましたが、ある時山本五十六氏が「年の若い者は降りろ。これからの日本を支えるんだ」と無理やり下ろされたとの事。その方曰く「今生きているのは山本五十六氏のお陰だ。先見の明があった人だった」。

以前、山本五十六氏の姪の方からも話しを聞いた事がありました。山本五十六氏の画廊には巻物があり、その中には「この戦争に日本は負ける」と記載してあったとの事。

何故その時戦争と言う選択しかなかったのか悲しい思いにかられます。
人生の大先輩方との出逢いに感謝するとともに、戦争を知らない後世の人達に伝えていかねばならない責任とこれからの新しい時代において二度と同じ過ちは犯さないで欲しいと願うばかりです。

エピソード57 あと何日か早ければ――
悔しさを胸に改善を心に誓う物語

その方との出逢いはお嫁さんからの一報でした。その日に訪問すると簡易ベットに横たわり仙骨、背中に大きな褥瘡が出現していたのでした。

お嫁さんがオムツ交換や担当の医師へ相談をして褥瘡の手当てをしていたのですが、なかなか改善しないとの事。近所の知人に相談して介護保険申請を行い決定が降りたので地域包括へ相談したとの経緯でした。

その日の内にエアーマット搬入し訪問診療の医師も駆けつけ褥瘡をデブリ(悪い部分の切除)し手当てを行ったのでした。その日が金曜日だったこともあり介護保険サービス利用時の担当者会議が翌週の月曜日と調整をしていましたが次の日の夜、お嫁さんより連絡があり「意識がない」とのこと・・・訪問診療が訪問致しましたが永眠されてしまったのでした。

残念でたまりませんでした。あと何日か早く連絡が来れば・・・家族に誰かが暫定でも介護保険サービスの利用が可能だという情報を伝えていれば・・・悔やんでも悔やみきれない結果になってしまったのです。

世の中の人達に介護保険の存在は周知されていますが困った時にどうすれば良いのかを理解していない方々が沢山いらっしゃいます。このような事が二度と起こらないような仕組み、地域社会において町会や民生委員への呼び掛け等、私達一人一人が隣近所の高齢の人達が今どんな状況にあるのかに関心を寄せなければならないと考えます。

エピソード56 “自分らしい”最期のために――
決意を新たにする物語

その方は夫が亡くなってから独りで生活をされていた方でした。慢性呼吸器不全に罹患しており在宅酸素を利用し夜間は「シーパップ」を装着していた方でしたが、人の世話にはなりたくないと何時も自分でできる事は何でもされておりました。

関わる人達に感謝の言葉を言い続け、「いい人よ」が口癖でした。そんな中状態が悪化し入院を余儀なくされたのでした。

入院中面会に行くと言葉も聞こえない程体力が低下していました。担当の看護師からも危篤な状態ですよ。と告げられたのです。

そんな時担当看護師より「井上に会いたい」との連絡があり面会に行くと「自宅へ戻りたい」と・・・「戻りましょう。皆が待ってますよ」言うのが精一杯、涙が零れてきたのです。

誰もが自宅へ戻り自分らしい生活を夢みているのに、医療処置が高い人達は現実には戻れないのが事実です。地域ケアネットワークの構築が叫ばれている中、どんな人でも安心して自宅へ戻れるような体制を作らねばならないと感じております。
誰が作るのか・・・それは私達です。小さな力を寄せ集め大きな力に変えていかなければならないと思う強い意思です。足りない社会資源があれば、抱き起こすのだと心に誓うこの頃です。

エピソード55 自分よりも周りのみんな――
人を思いやる心に胸を打たれる物語

その方は夫が亡くなってから独りで生活をされていた方でした。脊柱管狭窄症に罹患してからも痛みで動けなくなるまで日本舞踊を舞い自宅でカラオケなどを楽しんで充実した余生を過されておりました。

歩行が困難になっても室内で車椅子を自走し腰の痛みがあっても自分自身で「頑張れ、頑張れ」とベットへの移乗をしていた姿が忘れられません。

そんな中少しずつ身体機能、認知機能は低下しベット上の生活となってしまったのです。以前中国で社長秘書をしていた事もあり中国語が得意でヘルパーが訪問すると中国語で話されたり歌を歌ったりしていたのです。

ある日誤嚥性肺炎になり食事を摂ることも忘れ高栄養剤のみを摂取して生命を維持し続けていました。定期訪問で訪問すると自分のことよりも私の手を取り「手が冷たいから布団の中へ入れて温めなさい」と自分の手で私の手を温めてくれた優しい方でした。

自分が何も出来なくなっても人を思いやる姿に涙が零れて止める事ができなかったのを思い出し胸が熱くなります。

身体機能や認知機能が低下しても自分よりも相手への優しさや思いやりを忘れないこと・・・どうしたらできるんだろうと何時も考えます。その方の頭の奥にある何にも阻害されない記憶・・・人間の無限の力を感じた瞬間でした。

エピソード54 きっかけは“片付け”――
役割が人を輝かせる物語

その方は認知症に罹患し妄想や幻覚が出現し近所とのトラブルが絶えず一旦は施設へ入所されたのですが、ご家族が施設に面会へ行くとぼんやりとしていて認知症が進行してしまっていたとの理由で自宅へ連れ帰った方でした。

初めてお会いした時は発語もなくうなだれていたのが印象的でした。物忘れがあり薬も飲まない状況でした。通所介護を利用して服薬管理をしたらどうかと提案し毎日通所介護へ通い出したのです。

施設でも帰宅願望が強くレクが終わると「それでは、このへんで失礼致します」と帰り支度を始めます。そんな中、職員が以前の明るさや生きる張りを思い出して欲しいと思い提案したのが職員の仕事を手伝って貰う事でした。

帰る支度をする時に通所介護の職員が「まだですよ。仕事が残ってます。食事の盛り付けや片付けを手伝って貰っても良いですか?」と言うと「何の仕事?」と手伝い始めたのでした。

自宅へ定期訪問しても最初にお会いした時とは見違えるように色々な話をされ「通所介護では重宝にされているのよ。仕事が一杯あって楽しいの」とのこと。

物忘れがあってもできる事が沢山あります。その方の生活暦に寄り添い、その方のできる事を引き出す事の大切さ、家族や誰かの為に何かをする事で自分が役に立っている喜びが、その人を輝かせるんだと実感しました。

エピソード53 命に携わる認識の大切さ――
心構えを憂う物語

その方との出逢いは退院した当日のことでした。訪問すると呼吸苦に苦しみ話もできない状態、退院時に担当医からは自宅へご本人が戻りたいと言っているので退院しても構わないとの話だけだったとの事。

すぐ様、知り合いの訪問診療の先生に連絡をしたところ在宅酸素を自宅へ運んでくれましたが、訪問診療の先生からも「こんな状態で何故退院になったのか?」との質問がありましたが、家族の方々は「父は自宅へ戻りたがっていましたが、まさかこんな状態だとは説明を受けていない」との事。

自宅で各サービス事業所と連携を取り毎日訪問していましたが状態が悪化し退院した病院へ緊急搬送となったのです。病院の相談員からも連絡が来ましたが「あんな状態で退院させるのは酷いですよ」との問いに「退院連携は担当医と担当看護師からの指示なので退院前会議は行わなかった」との見解。

その後家族に看取られながら永眠されたのでした。後日ご家族宅へお悔やみの訪問をすると、何故あの時にあの病院へ入院させたのかと担当医への不満とご家族が自分達の対応への後悔と悲しみで涙を流されておりました。「ご家族様の色々な思いや後悔はあるかも知れませんが、その場ではあの判断が最善だったと思えませんか?ご家族がご自分達を責めて生きる事をお父様は望んでないと思いますよ」と言うのが精一杯で私も涙が零れて止まりませんでした。

地域との連携、地域ケアネットの推奨が叫ばれている中病院側の対応、担当医から自宅へ戻る時のリスクの家族への説明が何故されなかったのか残念でたまりません。私達介護職だけでは無く、医師会など他職種も認識を高めなければならないのではないかと考えます。

エピソード52 見えないものを見る力――
これからの社会を想う物語

厚生労働省において「地域共生社会」の実現に向けて改革の基本コンセプトが具体的に進められております。高齢化や人口減少に伴う生活領域における支え合いの基盤が弱まっている中、再構築することにより様々な困難に直面した場合でも誰もが役割を持ち、お互いが配慮し存在を認め合い、支え合うことで孤立せずにその人らしい生活が送ることができるような社会が求められているとのことだそうです。

先日役所の研修会でも講師が「皆さんは貧困に困っている子供達を町で見かけたことがありますか?無いでしょうね。それは見ようとしていないからです」と言われた時に衝撃を受けました。介護職に置き換えると認知症の方々を町で見かける事は多々あります、同じ事ですとも言われておりました。

私達が見ようとしないだけ・・・見えないものを見る力が問われていると感じました。

また幼児教育に携わっており、NPO法人として「こども食堂」をしている方と話をした時に「日によっては一人しか来ない時もあります。でも、一人でいいんですよ。一人を救えればその子供が生涯に関る人達は何十人にもなる」とのこと。凄いと思いました。

いま私達が何ができるのか?心のバリアフリーとも言われますがバリアを取り除けば気づくことができるともいわれてます。

共生社会、地域包括ケアシステムの強化のためにも、見えないものを見る力を養わなければならないと考えます。

エピソード51 皆で心を支える大切さ――
けがによる失意から勇気づける物語

その方は自宅で胸椎圧迫骨折になってしまった方でした。入院中と聞き病院を訪問すると今まで日本舞踊を習っており仲間と発表会を控えた矢先に転倒してしまったとの事。

病院ではサークルの歩行器を使用しておられましたが患部の痛みや今の自分自身に意気消沈、まさか自分がこんな事になるとは想像もしていなかったと涙を流されておりました。

「自宅へ戻ったら日本舞踊の再開を目標にしましょう」と言葉を掛けても「もう駄目だよ」との答 え・・・そんな中、退院へ向けて看護師長から「胸椎圧迫骨折は患部だけがもろくなっている訳ではなく他の骨も弱くなっているんですよ。今から骨を補強する為にできる事は食事をしっかり摂る事、日光を浴びる事ですよ。今の食事が10年後の自分の身体を作るんですよ。諦めずに前を向かなければ駄目です」と言われたのです。

話を聞いた時の眼の輝きを忘れることができません。自宅へ戻り近所へ散歩をするのを日課にし、毎日煮干をかじって過されたのです。

1ヶ月後その方にお会いすると何と福祉用具の方に杖の使い方を習い、とても上手く使っておられました。そして「もう一度日本舞踊を踊るんだ」と力強い言葉。

私達介護職が一人一人の心に寄り添い目標を立てても上手く行かない事が多い中、その方を取り巻く関係者の援護射撃が必要なのだと改めて感じました。地域のケアネットワークの大切さに気付いたのです。職種に関係なく地域が一人一人を支えなければなりません。

エピソード50 最期を迎える場所――
見送るご家族との幸せを想う物語

その方は末期の胃癌に罹患し保存的治療しかないと診断された方でした。
病院へ訪問すると気力が低下しており、告知をされてから食欲も無くなってしまったとの事。ただただ自分の家へ帰りたいとの思いがあると奥様に話を聞き次の日に自宅へ戻ったのでした。

自宅へ戻った時のお顔の表情が病院に居る時とは別人で、笑顔も見られ大好きなビールは飲みましたか?との問いに「飲んだよ。うまかったよ」との答え。病院では食欲も全く無かったのでしたが家に帰るとあれが食べたいと奥様に要求していたのです。

治療方法が無くなった方にとっては自分が生まれ育った家に帰ることが安心できることであり、そして自分の最期を送る覚悟を家族と一緒に考える場所だと思います。

自宅へ戻り9日目の朝奥様から「呼吸が止まったり動いたりしている」との知らせに「ご本人は耳は聞こえているから安心できる言葉を掛けてください」と伝えたのでした。そして夕方息子さんやお孫さん達に見守られ天国へと旅立ったのです。

お悔やみに訪問すると奥様から「自宅へ連れて帰ってよかった。最後まで家族の声を聞いていました」と涙ながらに話されておりました。
看取るという事を考えた時にその方が人生の最後に幸せだったと思えるのか、そしてご家族がこれでよかったと思えるのかが、大事なことだと思いました。

エピソード49 認知症を地域で支え合う――
安心して暮らせる未来に思いを馳せる物語

弊社のご利用者様にも認知症と診断された方々が沢山いらっしゃいます。
お母様、お父様が認知症という病に侵されていく時のご家族の苦悩は図りしれないと思います。

しかしながら、ご本人もまた苦しんでいるのも事実です。今覚えていたことを思い出せなくなり、どうしても分からなくなっていく恐怖はご本人にしかわからないことだと思います。

また、ご家族におかれましては、今まで元気に暮らしていたご両親・・・子供の頃から頼っていたご両親・・・毎日同じ事を繰り返し聞くようになっていく・・・そんな時の喪失感や焦燥感は親族の方しか分からない悲しみとなってしまいます。

これからの社会に置いて重要なのはご家族だけで抱え込まないように地域で支えること。地域のネットワーク作り、町会の方々や地域で行っているサロンへの参加の呼びかけなど、まだまだ行き渡っていない のが現実です。今までご家族の為に一生懸命に働いてきてくれた高齢者の方々が安心して暮らせる世の中になるように、少しでもお力になりたいと考えております。

エピソード48 最期を看取る辛さにどう寄り添うか――
介護職のあり方を考えさせられる物語

その方との出逢いは末期の肺癌に罹患し脳へ転移し治療方法がない状態で自宅へ戻る時でした。
自宅では障害を持っている奥様と二人暮らし。近所に一人娘さんが居るだけでした。
お会いした時に拝見した笑顔がとても素敵で「何もする事がないなら自宅へ戻りたいんだよね」との言葉が印象的でした。

在宅へ戻った当初はとても元気で大好きな新聞を読んだり奥様の手料理を美味しいと食べたりと・・・「戻って来て良かったよ」と言っておられましが病魔は確実に身体を蝕んでいき、あっと言う間に酸素、疼痛管理となってしまったのです。

私が最後にお会いした時はベットの上で声を掛けるとうなずくだけでしたが、次の日天国へと旅立たれました。 お悔やみに訪問すると奥様や娘様から感謝の言葉を頂きました。
そんな時いつも私の頭の中をかすめる言葉があります。
「私はこの方や家族の為にもっと出来ることはなかったのだろうか︖」
家族を看取る辛さ、悲しさにもっともっと寄り添える介護職でいなければならないと心に誓うのです。

エピソード47 家族が認知症を患ったそのとき――
認める勇気と家族の絆の物語

その方との出逢いは、認知症に罹患し自分の家も分からなくなくなり徘徊を続けておられた時でした。妻に先立たれ自営業で男の子二人を男手一つで育てられた方でした。
長男家族と同居はしておりましたが、食事の摂り方が分からなくなり排泄も上手く行かなくなった時の長男さんの落胆は図り知れないものでした。食事の後にお皿を舐め始めた時・・・排泄が上手く行かずに失禁した時・・・長男さんが涙を流していたとお嫁さんから聞いたものでした。
夜間も外へ向かい怒鳴り始めた時に、お嫁さんが長男さんに言った言葉が印象的でした。
「貴方の父親ですよ。今は認知症になっているかも知れないけれど、一番苦しんでいるのはお父さんだよ。もっとお父さんに向き合わないと駄目だよ」と・・・。

その事がきっかけとなり長男さんが昔のお父さんをご本人様に思い出して欲しい一心で日中車椅子で散歩をさせたり、自分を育ててくれたエピソードを懐かしく話したりと懸命に関るようになったとの事。近所へも自分の父親が認知症なので見かけたら教えて欲しいと伝え歩いたとの事です。

そうした行動を起こすと不思議に夜間不穏になることがなくなったとの事でした。

認知症の問題が今世間では取り上げられていますが、地域との共存できる世の中を作るのは誰でもない、認知症の家族を持っている人達や地域の人達の認識に掛かっているのではないかと考えます。
自分の家族が認知症に罹患した時、やはり自宅の中に居てもらいたい、近所の人に知られたくないと思うのは当然の気持ちだと思いますが、勇気をもって心を開くことで認知症の人達が住みやすい、そして家族の方々が安心して介護できる世の中になるのではないか、それこそが私達が目指すものではないかと思います。

エピソード46
奥様の強い想い、最後の願いを叶える物語

その方との出逢いは、末期の大腸癌に罹患して自宅への支援体制を整えて欲しいとの大学病院のMSWからの依頼があった時でした。病院へ初回訪問しようと日程を決めておりましたが、腫瘍の進行が早く在宅へは戻らずにホスピスへ転院すると連絡が入ったのでした。

1ヶ月が経ち、今度はホスピスの担当看護師からの連絡……ご本人様がどうしても自宅へ戻りたいと希望しているとの事。某月3日に病院へ看護師、福祉用具と訪問すると意識も混濁しておりご主人様が泊まり込みで看病していたのでした。

担当看護師からは自宅へ戻っても1週間は持たないだろうとの見解でしたが、ご主人様も奥様の願いを叶えて欲しいとの一途な想いの中次の日に退院する事となり自宅へ戻りました。

自宅へ戻った当日、大好きなご主人様と一緒に近所へ車椅子で散歩へ出掛けた時の満面の笑顔が印象的でした。

次の日に訪問入浴を利用して入浴しましたが4日後に眠りについたのでした。
ご主人様にお悔やみを申し上げる為訪問すると泣きじゃくっておられ、昨日も息子さんが奥様の両指にマニキュアを塗っていたとの事。
元々アパレル関係の仕事に従事していた奥様はおしゃれをするのが大好きだった事もあり、とても喜んでいたとの事。最後まで息子さんと一緒に奥様の耳元で話し掛けていたとの事。

ベットの上で眠っていたお顔が安らかで、ご家族様に見守られて天国へと旅立ったことだと想い涙が溢れてきました。

ご家族様、ご本人様の強い想いが叶えられた最期だったと思います。

エピソード45 もう一度子どもたちに食事を作りたい――
最期の選択と決断の物語

その方との出逢いは、末期の癌宣告を受け手術をした後の頃でした。

女手一つで二人の子供を育て、やっと子供達が社会人になる矢先のこと・・・
身体の異常に気が付き受診すると癌との診断。
大きな病院を紹介され受診したものの、癌の進行の状況が激しく、手術を何度か施術したのも束の間、治療方針が無いと判断されたのでした。

お姉様が病院を受診した時に末期だと告知してくれたら手術を何度も受けなかったと話され、訪問看護担当者からも病院を選ぶことは難しいと言われました。
もう一度自宅へ戻り息子達の為に食事を作りたいとの思いが募り自宅へ戻る事となったのです。
主治医からは余命1ヶ月と宣告され不安で一杯のお顔が印象的でした。

訪問看護の担当者から「何も心配はいらない。安心して自宅へ戻りましょう。」と言う言葉に満面の笑みと涙が零れておりました。
自宅へ戻り息子達と毎日布団で川の字に寝ていたのですが、1ヵ月後永遠の眠りについたのでした。

病院選びの難しさ、ご本人に対して選択肢をきちんと説明してくれる病院なのか。
最期を何処で迎えるかの決断・・・病院側の判断・・・いろいろな意味で考えさせられました。

エピソード44 介護職ができることとはなにかーー
介護職の在るべき姿に、思いを馳せる物語

その方はヘルパーが訪問して帰る時に、何時までもベランダから手を振る気さくな方でした。

お風呂が大好きで毎日お風呂へ一人で入っておられましたが、認知機能や身体機能が低下し、ある日、一人でお風呂から上がれない状況になり弊社の職員総出で助けに行ったことがあってから、一人ではお風呂に入らないようにとお風呂場に張り紙をしたこともありました。

そんなある日の事・・・朝ヘルパーが訪問するとベットで動かないとの知らせ・・職員が駆けつけると息絶えておりました。

昨夜お風呂に入った様子があり息子さんから「最後に大好きなお風呂に入れたんだ。よかったね」との言葉を聴いた時に介護職としてご本人様にはお風呂に入らないように伝えた事がいいのか悪かったのか分からなくなってしまったのです。その方の一番望む生き方は何だったのか?

私がヘルパー2級の講習で講師が話した事を思い出しました。
「皆さんは障害者の方が交通量の多い道路で車椅子で一人で居たらどう思いますか?危ないから安全な自宅に居ればいいのにと思いませんか?それは間違っています。どんな障害を持っていても危険に合う権利を持ってますよ。たとえば綺麗なバラも温室で誰にも見てもらえなかったら、誰も綺麗だとは言わないですよ。」と聞いた時に衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。

何が正しいのかは私にはわかりません。
結果論かも知れませんが私達介護職は常にご利用者様の思いに心を馳せなければならないと突きつけられたように思いました。

エピソード43 介護職ができることとはなにかーー
「介護」を通じて見えた、
心の奥のやさしさと悔しさの物語

その方にお逢いしたのは昨年末でした。
膀胱癌に罹患し余命宣告をされましたが、最後は自宅で過ごしたいとの強い想いから退院されたのです。

奥様と二人暮らし。奥様に面倒を掛けたくないとの一心から介護サービスを利用したいとの事。初めてお逢いした時の悲壮感に溢れたお顔が印象的でした。本心は介護保険は使いたくない・・・ベットなどに寝たらお終いだよと・・・その訳を聞いてみるとご本人様がご両親やご兄弟の介護をして最期を看取ったとの事でした。

サービスを始めるに至るまでの、その方の想いが私の頭の中を巡りました。
私が作らせて頂く、お一人お一人の計画書、ご本人様やご家族様の想いを代弁できればと・・・そんな想いの中担当 者会議にて計画書を読み上げた時ご本人様の眼から大粒の涙が零れました。奥様からも「どうして私達の心の中の想 いが分かったの?」と何度も何度も話されて胸が一杯になってしまいました。

ベットをあれほど拒否していたのに利用する事になり流された涙・・・オムツ交換になってしまった時に流された涙・・・

余命宣告をされ自分の身体が動かなくなっていくもどかしさや悔しさの中で妻を思いやる優しい気持ちを悔しい想いを最後まで忘れない方でした。

ご本人の強い思い、ご家族を思いやる気持ちに私達介護職が、どこまで寄り添えるのかと考える機会を与えて下さったように思えてなりませんでした。

エピソード42 思い描いた最期を全うしたい......
ご兄弟との強い絆の物語

その方はお母様の時からのかかわりでした。お母様の最 期は前日まで孫たちとお寿司を食べ歓談し、三女さんとお風呂に入ったとの事。その次の朝眠るように永眠され ました。


2年後のある日、同居していた長女さんから連絡があり、昨年大動脈解離に罹患し入院中に転倒、右手首を骨折したとの事。介護保険認定を受けたいとの相談があり認定を受け担当のケアマネとなったのです。

ご妹弟が毎日泊まり込みで介護をされ、ご妹弟の絆の強さに感激しておりました。介護保険サービスも最小限で利用されており、自分ができなくなってしまうことを懸 念されていた方でした。

韓流スターの後援会の役員もされ、何度も韓国へ行っていたので回復したら又韓国へ行くのが目標となっていました。

後にお会いした時も日本でのコンサートに行き、大好きだった韓流スターに合ったことを嬉しそうに話されて居た事を思い出します。

何時もご妹弟に感謝され自分でできる事を貫き通す姿が素晴らしいと感じてました。そんなある日ご妹弟様からの訃報に愕然と致しました。

連絡が取れないので自宅へご兄弟が訪問すると、眠るように息を引き取っていたとの事。大好きだったご両親の元へと旅立ったのでした。

ご妹弟様が弊社へ挨拶に来て下さった時も「きっと母が 心配して姉を連れて行ったのだと思います。」と誰よりもご兄弟に迷惑を掛けたくないと言っていたので姉らしい最期だと思うとも話されておりました。


自分の最期・・・誰もが他の人達に迷惑を掛けずにひっそりと願っていると思います。「朝寝して眠りの先に死 あれば」何処かで聞いた文言です。

自分で思い描いた最期を全うする人はそうはいないと思います。

そんな素敵なご家族にめぐり会えたことに感謝致します。

エピソード41 病気を患っても、常に上を目指す......
友人をも勇気づける、そんな強さの物語

その方は60代で脳出血に罹患され右半身に不全麻痺が残った方でした。
大きな病院でリハビリを受け自宅へ戻りましたが、常に自分自身を叱咤し毎日の生活で自分に負荷を与え、現状の自分に満足をしない方でした。

退院当初は右手で文字も書けず、ズボンも上げる事が難しかったのですが、毎日毎日リハビリを行い少しずつ身体機能を回復していったのでした。
その方の口癖は「私は今の自分に満足していない。常に上を目指しているのよ」と・・・素晴らしい言葉だと感激した事を鮮明に覚えております。

これからの自分の人生をどう生きるのかが私に課された問題だとも言われておりました。
人に対する言葉や態度も自分で変えて見せるんだと・・・

ある日その方が電話で友人と話されるのを聞いた時の感動が忘れられません。
電話口の友人も片麻痺でなかなか自分の体がきかないとの事。
その友人に「いいのよ。いいのよ。それでいいの。自分でできる事だけ一生懸命にやればいいのよ。

同居していたご主人も亡くされ、自分自身も辛く夕方になると涙が零れて仕方ないと話されていたのに友人を勇気づける優しさ、素晴らしいと思いました。
突然病に冒され今まで出来ていた事ができなくなる悲しさ、もどかしさ・・・そんなご利用者様の心に寄り添える介護職でありたいと思っております。

エピソード40 声を合わせて「ありがとうねぇ」が合言葉のご夫妻
素敵なご家族へ感謝の物語

その方は認知症に罹患しており娘さんと奥様の3人暮らしというご家族でした。
最初は娘さんからの相談と介護保険更新時の代理申請という関りでした。

今年に入ってお父様が癌だと診断されたとの連絡がありました。
訪問してみると右大腿に癌が転移していると痛そうに足を引いていたのでした。
抗癌剤の投与の為、入院となり在宅で最期を過すと決め退院致しました。

退院時はポータブルへの移乗も可能だったのも束の間、すぐにベット上の生活となってしまったのでした。
ヘルパーが訪問すると何時も奥様と声を合わせて「ありがとうねぇ」が合言葉、ご夫妻で冗談を言ったりと、とても素敵なご夫妻でした。

自宅での最期の時のご本人の発した言葉は、奥様の名前だったとの事。
最後までご家族を思って止まない気持ち・・・お悔やみに訪問した時にご家族様に 「お父様は何時もご家族の傍に居ますよ。私達に見えないだけですよ」と言うのが精一杯でした。
娘さんからも「これからも私達と関っていて下さいね」との言葉に胸が詰りました。

素敵なご家族様との出会いに感謝しております。

エピソード39 愛する人が亡くなっても、愛してやまない強い想い
そんな想いの中でご主人が生き続ける物語

その方は亡くなったご主人の事を愛してやまない人でした。いつも「主人の元へ行きたい」が口癖でした。お一人で暮らしておられ、自分の事は自分で何でもされておりましたが、だんだんと歩行が不安定となり、ベッド上の生活となってしまったのでした。私が始めてお会いしたのは、オムツをご自宅へ持って行ったときでした。

顔見知りのヘルパーに両手で手を振っていたので、とてもチャーミングな女性だなと感じました。当初はベッド上で食欲もあり元気だったのですが、だんだんと食事が摂れなくなりました。訪問診療が毎日点滴をしに訪問し始めたとき、担当の先生より「とにかく経口から水分と栄養を摂るように」との指示がありました。ヘルパー訪問の後、弊社の職員と交代で訪問して水分補給をして貰う為毎日訪問しておりました。

私が訪問した時ご主人の遺影の前に色紙があり、その中には「貴方の自転車の後ろに乗り風を切って走ったときの事を懐かしく想い出しております。貴方のことを想い出しては貴方の傍に行きたいといつも願ってます。・・・」等の文面でした。亡きご主人を愛する気持ちがひしひしと伝わり胸が熱くなったのを鮮明に覚えております。

そんな日々が、2週間程続いた朝、その方は愛するご主人の元へ旅立ったのでした。愛する人が亡くなっても、その人を想う気持ちが強い限りその人は他の人の中で生き続けるとの事。素敵なことだと思いました。

エピソード38 ご本人の生きる力、そして回復すると願う
ご家族の強い思いが起こした、奇跡の物語

その方は他のケアマネが退職する理由で7月に交代した方でした。
次男さんと住んでおり介護をされていましたが、初夏の暑さからか自宅で倒れていたのを発見。緊急搬送した結果、脳梗塞と診断されました。
嚥下障害もあり中心静脈栄養法(IVH)を余儀なくされ、主治医からは他の病院への移動を求められていました。次男さんからの相談で自宅近所の病院への移動を提案し転院。ご本人にお会いした時は全く応答もない状態でした。
しかし次男さんの強い希望で「自宅へ戻す」との意向により、担当医の方から説明を聞きに同席した時の事でした。次男さんより思いもよらない提案があったのです。
「もう一度口からの食事摂取を試みて欲しい。駄目ならお父さんも私も諦めます」との内容に担当医と私は驚きを隠せませんでした。
担当医もご家族様の意向であれば、と院内で経口摂取の試みが始まったのでした。
ゼリー食、ミキサー食と次々とハードルをクリアーし、2週間足らずでなんと、常食になったではありませんか。
勿論、中心静脈栄養は外されました。まさに奇跡としか言いようのない回復力でした。
退院となった当日、自宅で次の奇跡が起きたのです。
通所介護の職員がベットから本人を手引きで立ち上がらせた時、歩き始めたのです。
その場に居た介護事業所の皆様より歓声が上ったのはもちろん、次男さん始め皆様で顔を見合わせ笑い出してしまいました。私も「ビックリポンだよ」と言ってしまいました。ご本人の生きる力、そして回復すると思う次男さんの強い思いに感動した瞬間でした。次男さんとの「今日はお祝いだからお寿司を食べようね」「○○ちゃん、有難うねぇ」と会話を聞いた時になんとも言えない思いに駆られました。
ご利用者様お一人お一人の生きる力とご家族様の強い思いに勝るものはないと・・・少しでもお力になる事ができればと介護職としての役割を心に刻みました。

エピソード37 助け合う心が、人から人へ・・・
想いが紡がれていくことを感じる、ある女性の物語

先日旅立った方がおりました。
その方は娘様達が近隣に住んでおりましたが、できるだけ娘達には世話にならずに一人で暮らして生きたいと強く思い続けていた方でした。
関節リュウマチ、難病指定ビュルガー病に罹患されており常に上下肢や関節に痛みがありましたが、自分で出来ることを頑張られておりました。
自宅で何度も転倒を繰り返しながらも弱音を吐かない人でした。

ヘルパーの訪問回数を増やすように提案しても「大丈夫。大丈夫」と繰り返し言い続けていた素敵な方。
自宅で頑張っていたのも束の間、急に体調を崩し緊急搬送され1週間も経たない内にご主人の元へと旅立ったのでした。
娘様より連絡があり、自宅にある電化製品などの処分を頼まれ業者を紹介致しました。
電化製品はお金に換金できる事も伝えましたが、もし処分する費用が発生した時には、弊社の利用者様の困っている方々へ譲って欲しいと伝えたところ、娘さんより「まずは困っている方々を優先して下さい。お金に換金しても母は喜ばない・・・」との言葉に感激してしまいした。

弊社で関わっているご利用者様方には電化製品が揃っていない方々が沢山おります。そのような方々を支えているのは、お一人お一人の善意だと思うと胸が詰りました。
その方が居なくなっても色々な意味で他の人達の生活の中で生き続けていることが素晴らしいことだと考えます。ありがとうございます。といつも心の中で呟いております。

エピソード36 「一緒にオリンピックを見よう」という合言葉。
いつでも思いだされるご利用者との物語。

その方との出会いは凄く短いものでした。福祉事務所と包括からの依頼で自宅を訪問しましたが、身体が急に動かなくなってしまい室内が散乱しており、この環境の中で食事も摂らずによく生きていたという状 態でした。

弊社の職員総出で片付けて環境整備した事を懐かしく思い出します。
その方からのお言葉が印象的で「俺はあと5年生きられるのかなぁ」と何度も言われておりました。
その度に「一緒に東京オリンピックを見ましょうね」が私達介護職員の合い言葉になっていきました。

食事をしっかり摂り始めて一旦は元気を取り戻したのも束の間、急に状態が悪化して自宅で食事や水分が摂れない状況に陥ってしまったのでした。
緊急搬送された病院の担当医からの診断は肝臓癌との事。その方に延命処置はしないとの意向の確認をした時も「東京オリンピックを一緒に見ようね」と話され「絶対 約束ですよ」と答えるのが精一杯でした。

そんな約束をしてから2週間後のこと天国へと旅立たれました。約束・・・叶わない約束・・・時には生きる力となると信じてする約束・・・ご利用者様のお気持ちに寄り添うときに私達介護職の胸の中は一杯になってしまいます。
そんなとき心の中で呟く言葉は、いつも「貴方をわすれ ない」自転車に乗っているとき、仕事をしているとき、東京オリンピックのニュースを見たとき、貴方を想いだします。

エピソード35 「明日ありと思う心の仇桜」。
ご利用者の言葉で
今を生きる大切さを実感した物語。

その方は90歳を有に超え一人で暮らしている素敵な女性の方でした。
毎朝夫の仏壇に挨拶を欠かさずに1階から2階の階段を上がり降りして自分の身体を甘やかさないと
自分に何時も言い聞かせていると話されてたのが印象的でした。

「どこかお体の痛いところはないですか?」と聞くと「この歳まで生きてきたのだから痛いところだらけに決まっている。そんな野暮なことお聞きなさいますな」と言葉を返す方でした。
その方が長年生きてきた指針は「明日ありと思う心の仇桜」でした・・・

意味を聞くと桜はあすも美しく咲いているだろうと安心していると、その夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。人生もそれと同じで、明日にはどうなるかわからないから、頼みにしてはいけない、という世の無常を説いた戒め(親鸞上人作といわれる和歌)だそうです。

当然のように自分には明日があると信じている。今を精一杯生きられない自分に気が付かされた瞬間でもありました。人生の大先輩達のご利用者様お一人お一人との出会いの中で学ばされている介護職に携われたことに感謝するとともに誇りに思っております。

エピソード34 独学で英語を勉強し、英語に触れながら生きてこられたご利用者。
一人ひとりの生活歴を活かすこととは何か、
考えさせられる物語。

その方と出会ったのはご家族様が本人の認知機能低下に気が付き心療内科で 「海馬が萎縮しておりアルツハイマー型認知症」と診断された時でした。
ご本人様は独居で弟さんが一人居るだけでしたが、その方の口癖が「一人で居るのは淋しくて嫌なの」でした。
独学で英語を勉強して通訳をして海外へも何度も行っていた素敵な方でした。

精神通院の通所介護、介護保険の通所介護、訪問介護と利用していましたが、周辺症状が進み近所を毎日徘徊しておりました。
私達介護職は「何故徘徊するのか」と不思議に思いましたが徘徊をする理由は毎回ありました。
目的があっての徘徊・・・社員総手で探し回り、やっと見つけ「見つけた!」と言うと「見つかった!」と返す チャーミングな方でした。

その方の思いに寄り添いたいと訪問診療の医師や各サービス事業所の方々にも分かる範囲の英語で話すように伝えた ものでした。弟さんが外国の友人からの手紙を持参すると英語で読み始め説明もしてくれたりと・・・弊社の電話番 号を呪文のようにいつも言い続けており、日に何度も何度も連絡が来たことが懐かしく思い出されます。

そんな魅力のある方でしたが認知症状が進行して在宅で水を飲む事も困難となり特養へ入所されました。
「人は永眠しても居なくならない、その人を思い出す人がいる限り生き続ける」と・・・素敵な笑顔、忘れません。

エピソード33 難病と闘いながらも魅力的な笑顔で過ごされた日々。
いつまでもその日々が思い出される、
ご利用者との思い出の物語

その方と初めてお会いした時は、65歳になる介護保険利用になるときでした。
失礼な言い方ですが少女のような面影を残したとってもチャーミングな魅力に驚いたのを鮮明に覚えております。

しかし、その方の身体は満身創痍・・・難病(短腸症候群)脳梗塞、脳腫瘍等の数々の病気と戦ってきた人でした。
気候が暑くなると脱水になり何ヶ月も入院しては在宅へ戻ることを繰り返し、主治医からも癌に例えれば末期と診断されておりましたが、自分の自伝を書いたり、綺麗な花を愛でたりと、自宅での些細なことにも感謝をする、人間としてとても素敵な方でした。
辛い闘病生活なのに私が訪問するといつも身近で感動した話、楽しい話をされ、ケラケラと笑うのです。 そんな中終わりは突然やってきました・・・

インフルエンザを患ってしまい緊急搬送されましたが、感染症の為自宅へ戻り翌朝、大好きだった自宅で息を引き取ってしまわれたのです。
ご主人様からは難病と診断された時から覚悟はできていたとのお話を聞きました。

いつでしたか・・・「今生きていられるのはヘルパーさんのお陰です、しいては貴方の采配のお陰です。ありがとう」と言われ涙が零れて止まらなくなったのを思い出しましたが、果たしてその方の苦しみや悲しみにどれだけ寄り添っていられたのかと思います。
「人は永眠しても居なくならない、その人を思い出す人がいる限り生き続ける」と・・・素敵な笑顔、忘れません。

エピソード32 「もう一度自分で歩けるようになりたい」。
強い思いで、再び一歩一歩を踏みしめた感動の物語。

その方と初めてお会いした時は、80歳を有に超え、70歳まで看護師に従事していた方でしたが、 自宅で急に動けなくなりこたつで寝起きをしていました。
息子さんが室内でシルバーカーに乗せトイレへ連れて行くような状態でした。
すぐにベット、訪問入浴を手配致しましたが、ご本人から「もう一度自分で歩けるようになりたいの」との言葉を聴いた時に自宅でリハビリを始めましょうと提案、訪問リハビリが訪問してその方の状態にあったリハビリが始まったのです・・・


1ヶ月近く経ったでしょうか、訪問リハビリの担当者から連絡がありリハビリで歩行器を試してみたいとの提案があり福祉用具担当者と私が同席したときでした。
ベットから立ち上がり歩行器を両手で握ると・・・
1歩・・・また1歩と歩き出したのです・・・


私達サービス関係者は思わず拍手、拍手、そして涙が零れたのでした・・・
ご本人様の強い思いと訪問リハビリ、福祉用具の関係者達が生み出した奇跡・・・

その後その方は自分でトイレへ行けるまでになったのです。
年齢ではなくその方の強い思い・・・その思いに少しでも寄り添いたいと常に私達介護職は考えております。

エピソード31 「母の介護を辛いと思ったことはない」。
天寿を全うしたご利用者と、母を愛する娘との絆の物語。

その方は先日100歳のお祝いを区役所から頂いたと喜んで話されていた方でした。
95歳位までは下駄を履いて闊歩され、お気に入りのデパートへ出かけては美味しい物を食べるのが大好きだったと。
自宅で転倒して右腕を骨折したことが介護を必要とするきっかけだったらしいのです。
要介護状態になっても娘さんとよく車椅子で出かけてコーヒーやジェラートを食べるのを楽しみにしておられました。お母様の介護をすると決めた時から入院させずに自宅で看取るというのが娘さんの口癖でした。

そんな折風邪をこじらせてベット上の生活となってしまい、体力は少しずつ低下していきました。
最後は娘さんの判断で点滴も痛みが伴う為中止されました。
夜娘さんが寝る時はご本人様との会話はあったらしいのですが、娘さんが朝起きてご本人の足の裏をコチョコチョとくすぐった(毎日の日課だったらしいです)ところ何の反応もなく、永遠の眠りについていたとのことでした。

それはそれは安らかな寝顔でした。
お別れに訪問した時に娘さんから「何年も母の介護をしてきましが、辛いと思ったことはなく、とても幸せな時間だったのよ」
「一片の悔いもない」との言葉を聴いたときに介護することは並大抵な覚悟ではできない中・・・介護者の方の感じかたでこんなにも違うものかと思い自宅で看取る事の素晴らしさを実感いたしました。
ご家族様の思いに介護職である私達がすこしでも寄り添えればと考えております。

エピソード30 「癌に負けず、家族にも迷惑をかけず」
家族を想い、力強く生ききったお人柄を想う物語。

その方は自営業を営んでおり、子供様3人が後継者として支えている方でした。
突然癌に罹患して免疫療法を行っていた時に出会いました。
その方の口癖は「まだ、まだ遣り残した仕事がある。癌に負けてられない」
そして、ご家族のことを常に心配されておりました。
一代で築いた方だけあって、とてもお話の上手なユーモアのセンスがある魅力的で人をひきつける人でした。
自宅で訪問診療、訪問看護等のサービスを利用されていましたが、癌が股間節に転移してしまい激痛に襲われ入院してしまったのです。
そんな折、娘さんから一度は自宅へ戻したいとの相談があり、ともかく体調の良い時期に退院する予定となったのも束の間、今後は頭と腕に癌が転移してしまったのでした。
娘さんが何日でも自宅へ戻ろうと本人に言ってもご本人が「帰ると家族に負担が掛かる」と言い巌として受け入れないとの連絡がありました。
娘さんからの要望で入院中も自費で訪問マッサージを利用したいとの事で手配致しましたが、担当者の方が実に丁寧にマッサージをしてくれ助かっているとの連絡を貰い、天国へ旅立たれる当日も訪問マッサージの方が施術を終わると息を引き取ったとの事。
自宅へお悔やみに訪問すると素敵なお顔で眠っているようでした。
最後までご家族を想い優しさに溢れたお人柄が偲ばれ涙が零れました。心に残る出会いに感謝致します。

エピソード29 「一度は入浴させてあげたい」という一途な想い。
ご利用者様と紡いだ絆の物語。

その方はご両親二人、夫を見送り、女手ひとつで二人の子供を育てたとても意思の強い人でした。
在宅酸素療法をしても自分でできる事は何でもされておりました。
日増しに体調が悪くなりベット上の生活になってしまい、連日、訪問診療、訪問看護が訪問して看護をしてましたが意識レベルは低下するばかりで経口からの食事摂取もできない状態に陥ってしまったのです。
ただ、その方が口にした言葉が「お風呂に入りたいなあ」。そこで訪問入浴の手配をいたしましたが血圧が低下してしまい中止となってしまいました。
私達介護職、訪問看護、訪問診療の先生も「一度は入浴させて上げたい」との一途な願いとなりました。
訪問入浴の方々も時間帯を変更して何とか血圧の安定している時に入浴をさせたいとの思いの中、その時はやってきました。
訪問入浴の職員から、「入れました。ご本人様から『気持ち良かった。』と言って頂きました」との報告を受け喜んだのも束の間・・・
次の日に夜間訪問介護が訪問すると急変しており訪問看護が駆けつけ暫くすると息を引き取ったとの事。
永遠の眠りについたのでした。
後日娘様より「母が最後にお風呂に入れて嬉しかった。有難う御座います」との感謝の言葉をいただきました。 長年住み慣れた安心できる我が家で最期を迎えることが、その人にとって一番しあわせなことだったのではないかと感じた瞬間でした。

エピソード28 さよならではなく、またお会いしましょう。
ご利用者様と過ごした大切な思い出。

先日大好きなご両親の元へ旅立ったご利用様がおります。その方は若い時から関節リュウマチに罹患しており身体の関節の痛みと戦っていた方でした。時間を掛けて車椅子へ移乗してトイレへ行ってましたが、ある日自宅で転倒してしまいベット上の生活となってしまいました。

何年もベット上の生活でしたが日々身体が衰弱されてしまい食事、水分も取れない状態となったしまった矢先の事。いつも「頑張る、頑張る」と前向きな言葉を口にしてましたが・・・状態が悪いとの報告に私が訪問すると「もう、駄目かも知れない・・・」と言い出してしまったのです。「往診の先生や訪問看護、私がついてるから大丈夫だよ、また元気になるから、そんなこと言わないでね」と言うのが精一杯で涙が零れてしまいました。

医療関係者からは「何時呼吸が止まってもおかしくない」との診断でしたが、最期は大好きだった訪問看護、訪問介護の担当者に看取られ息を引き取りました。一報が入って駆けつけると真新しいパジャマに着替えている時でした。「フー・フー」と声が聴こえたので訪問看護の方に確認すると心臓が止まったり動いたりしているのだとのこと・・・何故か私には私を待っててくれたように思え涙が止まりませんでした。ご利用者様との別れは辛く悲しいことですが、私が必ず言う言葉は「さよなら」ではなく「またお会いしましょうね」とお一人、お一人が今も私達介護職の胸の中で生き続けております。また何処かで再び会える日を楽しみに・・・

エピソード27 1つのお声から実感したこと、
介護に対する熱い思いはどこでも共通。

先日、嬉しい知らせが弊社へ届きました。

青森県で高齢者の健康推進や生きがいづくりに取り組んでいる、
市民ボランティア団体関係者の方からのご連絡でした。

お話を伺うと、弊社の広報誌「ライジングサンVoI.27」にて掲載した
「恐山まぁだだよ」の関係者様で、インターネットで弊社のホームページを
たまたまご覧になったことから、ご連絡を頂いたということでした。
サンライズ物語を読んで感動したとのお言葉とともに、広報誌の残数があれば
送って欲しいとのお声も頂けました。

東京と青森で距離は遠くても何かの縁で繋がっていたようで、とても胸が熱くなりました。
遠く離れていても介護に対する熱い思いは変わらないことを、誠に嬉しく感じています。
そして、日本全国で根強い市民ボランティアの方々が高齢者様の支援をしていらっしゃる事が今の高齢者社会を支えているのだと改めて感じました。

これからも日本の今を構築されてきた高齢者の方々が安心して暮らせる社会にせねばならないと考えます。

エピソード26 戦争で失った命。仲間、そして家族・・・今世では計り知れない経験を通し、
今尚後悔の念を抱えている人生の先輩の物語。

8月15日、終戦記念日を今年も迎えましたが、その度に思い出す方がいます。

その方は第二次世界大戦当時、敵戦上陸部隊に属し、最後はガダルカナル島(通称餓島)と呼ばれる太平洋戦争の激戦を極めた場所と言われるところにいらっしゃいました。
ガタルカナル島では、日本軍が食料をドラム缶で海から流すとアメリカ軍がことごとく打ち落とし海に沈められ、上陸当時200人ほど居た部下も、殆どが餓死してしまったそうです。

日本軍が助けに来るとの無線が入ったのは闇夜の晩。
怪我をした人を担ぎながら海辺まで移動した時も、怪我を負った仲間に「用を足すから降ろしてくれ」と言われ、ほんの一瞬離れると、その方はそのまま自決したと・・・想像を絶することですが、きっと仲間の負担になることを思っての決断だったのでしょう。
やっとの思いで浜辺まで辿り着いても日本軍の船が海で止まる事なく動いていたと・・・動く救助の船まで泳げなかった人達は、救助された隊員に向かって、その場で手を振っていたそうです。
浜辺に居た仲間を置き去りにせざるを得ない状況でしたが、助けられなかった自分に対して、今も後悔で胸が一杯になると話し、涙を流されておりました。

終戦記念日が来る度に当時を思いだされ辛い思いをしている方々は大勢居られると思います。
戦争とは絶対にしてはならない事だと、私達のように戦争を知らない世代も受け継いで後世の子供達に伝えていくべきだと強く感じます。

エピソード25 認知症に罹るご本人と、支えるご家族。それぞれの想いと苦悩を前に
私たちにできることとは何かを問う物語

その方は、認知症に罹患しても、やさしさを忘れない方でした。
同居していたご主人様を先に見送った頃から物忘れが始まり仏壇にご飯を供えることだけを一生懸命に行っておりましたが、その内、ご飯を炊く手順さえも忘れてしまいました。
ただご主人との思い出は覚えており、ご主人と結婚の時のプロポーズの言葉を何度も何度も繰り返し話されておりました。

「認知症は神様からの贈り物」という考え方があると聞いたことがあります。
人生には辛いことや悲しいことがあります。
家族や親しい友人たちとの別れや、老いていく恐怖をやわらげるため、認知症という贈り物を下さったの
ではないだろうかいう考え方のようです。

しかしこの方の息子さんによると、毎晩息子の自宅に電話をかけて来ており、着信拒否にしたとの事。
涙を零しながら話されていたことが胸に突き刺さりました。
以前の元気な母親が全てを忘れていくことは、認知症の家族を介護している方々にとっての辛さは計りしれないと思います。
そんな家族の辛さ、悲しみを少しでも和らげられたらと私達介護職は、ご本人様、ご家族様の思いに寄り添っていきたいと考えております。

エピソード24 ご自身の最期をどう過ごすか。決断する勇気と強さを
教えてくださった、あるご夫婦の物語

その方は、優しいご主人と二人で暮らしている方でした。
子供さんはいらっしゃいませんが、ご主人が若い頃は仕事から帰ってくると、食事の用意もしてくれたと楽しそうに話されておりました。

ご主人が病に倒れ、退院すると自宅で1週間も過ごさずに天国へと旅立ってしまいました。
ご主人が居なくなり、何度も泣きながら電話をして下さいましたが、そんな折・・・今度は奥様までもが癌と診断されてしまいました。
介護保険サービスの事業者が訪問する度に「早く夫の元に行きたい」と言われておりました・・・。
病は進行して、訪問看護の担当者より「あと2~3日かも知れない」との連絡があった次の日。訪問介護の責任者より「様子がおかしい」との連絡が入り、訪問すると意識もなく、ご本人の名前を呼んでも応答はありませんでした。

訪問看護の担当者が訪問してきたので「緊急搬送はできないのか」と確認すると、昨日、訪問看護の担当者が訪問した時にご本人より「自宅で最期を迎えたい。最後にこの洋服を着せて欲しい」との話があったとの事・・・

もう一度ご本人の耳元でお名前を呼び「聞こえますか」と言った時、奇跡は起こったのです。
突然両眼を開き、うなずいた直後、天国のご主人様のもとへ旅立たれました。
自分の最期をどう迎えたいか自分で決断されたことを思うと、胸が熱くなったのを覚えております。
ご利用者様お一人お一人の人生のありかたを見せて頂く度に、私達もこんな風になりたいと感じられることに感謝しております。

エピソード23 身体が動かなくなっても感謝の気持ちを忘れない、
素敵なご利用者様に生き方を教えていただいた物語

その方は、若い時からご苦労され堅実にご自身の人生を送ってらした方でした。
とても素敵な方で、訪問するヘルパーとの出会いにいつも感謝の言葉を伝えている方でした。

ある日、訪問時体調不良で訪問できなくなったヘルパーに代わり私が突然訪問した時の事でした。
連絡する間もなく訪問した私が謝罪すると、思いがけない言葉が返ってきました。
「私は自分で買い物へ行けないからヘルパーさんを頼んでいるのだから・・・誰が来てもありがたいのよ・・来てくれて有難う・・・」
一面識もなく仕事で来ている私に向かって言ってくれた言葉に、感激した瞬間でした。担当の各ヘルパーよりご本人が素敵な方だとの報告は受けておりましたが、一瞬にして人の心を魅了してしまうことのできるのは、ご苦労され、ご本人らしい人生を歩まれてきたからなのでしょう。

そんな中、何度か訪問する機会があり、訪問する度に若い頃の素敵なお話をされて、ますますその方の生き方に憧れていた矢先のとき・・・
担当のヘルパーから訪問しても応答がないとの知らせに大家さんに鍵を開けて貰うと・・・
その方は玄関先で倒れ息絶えておりました。常日頃から「誰にも迷惑は掛けたくない・・・病院へ入院したくない・・・」と仰っていた通り・・・自分の人生を全うされたのだと思い、涙が零れ止まらなくなった事を思い出します。

身体が思うように動かなくなっても感謝の気持ちを忘れずに何時も素敵な笑顔でいる事の難しさ・・・
誰もが真似できることではありません。
ご利用者様と出会い、お一人、お一人に人生に生き方を教えて頂いた事は介護職に携わることができた私達の宝であると感謝しております。

エピソード22 ともに病気を抱える夫婦が、最期まで支え合って、そして二人で天国へ・・・
この素敵な夫婦愛に、悲しくも感動すら覚える物語

その方は、若い時からご苦労され堅実にご自身の人生を送ってらした方でした。
とても素敵な方で、訪問するヘルパーとの出会いにいつも感謝の言葉を伝えている方でした。

ある日、訪問時体調不良で訪問できなくなったヘルパーに代わり私が突然訪問した時の事でした。
連絡する間もなく訪問した私が謝罪すると、思いがけない言葉が返ってきました。
「私は自分で買い物へ行けないからヘルパーさんを頼んでいるのだから・・・誰が来てもありがたいのよ・・来てくれて有難う・・・」
一面識もなく仕事で来ている私に向かって言ってくれた言葉に、感激した瞬間でした。担当の各ヘルパーよりご本人が素敵な方だとの報告は受けておりましたが、一瞬にして人の心を魅了してしまうことのできるのは、ご苦労され、ご本人らしい人生を歩まれてきたからなのでしょう。

そんな中、何度か訪問する機会があり、訪問する度に若い頃の素敵なお話をされて、ますますその方の生き方に憧れていた矢先のとき・・・
担当のヘルパーから訪問しても応答がないとの知らせに大家さんに鍵を開けて貰うと・・・
その方は玄関先で倒れ息絶えておりました。常日頃から「誰にも迷惑は掛けたくない・・・病院へ入院したくない・・・」と仰っていた通り・・・自分の人生を全うされたのだと思い、涙が零れ止まらなくなった事を思い出します。

身体が思うように動かなくなっても感謝の気持ちを忘れずに何時も素敵な笑顔でいる事の難しさ・・・
誰もが真似できることではありません。
ご利用者様と出会い、お一人、お一人に人生に生き方を教えて頂いた事は介護職に携わることができた私達の宝であると感謝しております。

エピソード21 その方に「もしものこと」があった時、あなたは冷静に対応できますか?今まで培った知識や経験について
深く深く考えさせられ、もっと努力しようと胸に刻んだ物語

その方は、腎不全を患い、週3回透析をされていて、食事や水分制限があった方でした。
とても自分に厳しい方でしたが、実に優しい一面があった方です。
最初お目にかかった頃はこちらも大変緊張して訪問したものでしたが、いつしかその方の優しさに触れ、
魅かれてしまいました。
当初緊張しながら訪問していたのが、他のヘルパーからの「いつも井上さんがいつ来るのか心待ちにし
ているのよ」との話を聞き、いつしか私もその方を訪問するのが楽しみになっていました。
その矢先のこと・・・
透析の送迎のため、新しいヘルパーに引き継ごうと訪問したときのこと、朝から体調が悪かったとのこ
とで、「透析の送迎をキャンセルして、病院まで送ってほしい」との言葉があったのです。
引き継ぎのヘルパーにお帰りいただこうとした瞬間に、ショック状態に陥り、私は慌てて119番通報し
ました。
救急の担当者から「息はしていますか?」の問いに、私は「呼吸が弱くなっています」と答えたら、担当
者から「では、パッシングして下さい」と・・・
以前、講習会で消防士の方に心肺蘇生法を学んだことはあったものの、実際にやったことはありません。
私は頭が真っ白になりそうでしたが、救急隊からの「枕を取って気道確保、肺をパッシングして口腔か
ら息を吹いて!」と指示をいただき、必死に何度も何度も行って呼吸を確認しました。
しかし、再びショックが起き、とうとう呼吸が止まってしまったのです。私は、ヘルパーと一緒に
なって「呼吸して!呼吸して下さい!」と何度も叫びましたが、涙ばかり溢れて、とても言葉になりま
せんでした。
救急隊より「心肺停止」と告げられた時は、愕然としたのを思い出します。
帰らぬ人となった亡骸が自宅へ戻った際に、私はヘルパーと一緒に訪問しましたが、娘様より「最期ま
でありがとうございます。きっと、母は大好きな井上さんを待っていたんだと思います」と、感謝のお
言葉をいただいたのには、少しだけ救われました。
とはいえ、果たして自分が行った心肺蘇生法は正しかったのか・・・
人の命を預かっている私たち。介護職として、もっともっと勉強しなければならない。
そう心に誓った瞬間でした。

エピソード20 ご利用者様を支えていると思いつつ、実は「支えられている」私たち・・・
やさしさに触れ、涙し、襟を正すことを肝に銘じたお話

その方は、自立支援法で関わった方でしたが、とても気さくで、事務所に良く来ては色々な話をされて
いた方でした。若い頃はとてもやんちゃで、その方の武勇伝を良く話されておりました。
その方のお人柄でしょうが、いつも「あけみ、あけみ」と名前で呼んで下さった方でした。

私が介護福祉士を受験したときのこと。
「受かったと分かったら必ず俺に連絡しろよ」と約束してはおりましたが、発表の当日、その方から突然連絡がありました。いわく「受かったのか?」と。
私が「受かりました」と答えると、何と事務所にケーキを持参して下さったのです!それもケーキの
プレートに「あけみ合格おめでとう」と書かれていたのです・・・
その方は、松葉杖なくては歩行も困難な方でした。
そんな不自由なお身体で、わざわざケーキをぶら下げて来て下さったのです。
そんな温かい気持ちに、私は思わず涙が零れてしまいました。

ご利用者様の温かいお気持ちに触れる度に、介護職としての自分自身に問いかけます。それほどのこと
を、果たして自分はできているのか、してきたのか、と。
私たちは、ご利用者様を「支援」させていただいてはおりますが、実は逆に「支えていただいて」おり
ます。そういう気持ちに気づかせてくれたこと、感謝に堪えません。
ひとつひとつの出会いを大切にさせて頂き、これからもご利用者様のお気持ちに寄り添える介護を目指
していかねばならないと心に決め、襟を正していく所存でございます。

エピソード19 お互いを気遣う、素晴らしい夫婦愛。
そのとき、ケアマネジャーにできることは

その方は、奥様と二人暮らしで、子供さんもいないご家庭のご主人様で、胃癌から骨転移が認められ、
もはや末期の癌と診断された矢先の頃でした。
私が初回訪問すると、ご主人と奥様がお互いを気遣う言葉に胸を打たれました。
骨転移による腰への痛みが酷いにも関わらず、「妻が心配で心配で……ともかく妻の介護が楽になれる
ようにしたいが為に介護保険サービスを利用したいんです」と。
奥様からも「○○さんが少しでも自宅で本人らしい生活ができるようにして欲しい……二人で抱き合っ
て泣いているのよ」と……なんとも素晴らしい夫婦愛に触れた瞬間でした。
限られた時間の中で、私に何ができるのだろうかと考え込んでしまいました。
考えた結果、居宅サービス計画書にこう記載しようと決心したのです。それは「ご本人様、ご家族様の
辛い、お互いを想いやる心に寄り添えるような……」というものでした。

どの利用者様でも同じであるべきですし、ありきたりと言えばそれまでです。
しかしあのとき、私はこの想いを込めて、居宅サービス計画書を作成したわけです。
担当者会議時に、私が作成した計画書を読み始めると、ご夫妻で泣き出してしまい「有難うございます
…… 」との言葉が……思わず、涙もろい私も涙が零れてしまいました。

介護保険サービスの種類や内容は限られたものですが、ご利用者様の為の居宅サービス計画は、おひと
り、おひとりのための計画でなければならないと、いつも念頭に置いて作成しているつもりです。時折、
ご利用様やご家族様の辛い想いに自分の気持ちを馳せるとき、涙が零れてくることがあります。
私達介護職にできることは、たかが知れています。
しかしせめて、その方々へ寄り添う気持ちだけは忘れてはいけないと、自分自身に言い聞かせている次
第で御座います。

エピソード18 「あなたが担当で本当によかった。ありがとう・・・」介護職にとって、これほどうれしい言葉はない。
光栄に思うとともに、身が引き締まったお話

その方は、弊社のケアマネ職員が担当だった方ですが、癌に罹患して抗癌剤を投与しておりました。負
担が大きい事から、ご家族様が自宅で看取る事を決め、癌の痛みにもじっと耐えて弱音を吐かない方で
した。
奥様がずっと傍で、ご主人様の身体を摩りながら、自宅介護しておりましたが・・・
ある日奥様がお風呂に入る為、主人様の傍を離れようとした時でした。
ご主人様が力の限り発した言葉が「ありがとう」と・・・
奥様が戻ってくると息を引き取っていたとの事。
先ほどの言葉が最期の言葉だったのかと泣き崩れてしまったと・・・
その後、担当のケアマネが、ご主人様に最後のお別れに訪問した時のこと。
亡くなる当日、看護師さんが訪問した時に、奥様とこんなことを話されていたそうです。その看護師さ
んいわく「奥様、いいケアマネさんにめぐり合って良かったねって、ご主人様と一緒に話していたのよ。
それを聞いて、私まで涙が零れてしまったわ」と。

こんな話を、担当ケアマネは泣きながら、私に報告してくれたのです。それを聞いた私も涙、涙・・・
私達介護職は、ご利用者様が最期を迎えるまでの間に、果たしてどれだけの事ができたのか。
こういう時はいつも自問自答してしまいます。ご本人様が最期を何処で迎えるのか・・・
その決断は、ご本人やご家族様にとって「死」という現実が目の前に現れた瞬間だったと思うと、
心が痛みます。
介護職として、ご本人様やご家族様の辛い想いにいかに添えるかが大切なことなのだと改めて実感し、
そして心に誓いました。

エピソード17 「自宅へ帰りたい」「元の生活に戻りたい」という切実な想い・・・つらい難病を患っても、
笑顔と希望を忘れなかった、あるご利用者様の物語

Aさんは、難病である直腸機能障害に罹患されて、ドレーン留置しておりましたが、子宮癌にも罹患し
てしまい、抗癌剤投与して退院された方でした。難病に罹患しているにもかかわらず、とても明るくて
ユーモアのセンスがあり、ヘルパーが訪問しても笑いが絶えない、とても気さくな方でした。

そんなAさんが感染症にかかり、再入院してお見舞いに訪問した時に「もう一度自宅へ帰りたいよ」と
私に向かって話されました。その言葉を聴いた私も「帰りましょうよ。自宅へ戻っても何も心配ないよ。
帰る時は私が迎えに来るから・・・」と言うのが精一杯で、涙が溢れてしまいました。
傍にいた担当の看護師さんも一緒に泣き出してしまいました。
Aさんも泣きながら「本当だよ。約束してね」と・・・
その後、奇跡的な回復をみせて退院が決まった時に、大学病院でのカンファを開き、医療との最終確認の
元、自宅へ戻られました。熱が出て苦しくなっても、Aさんは何時も「大丈夫、大丈夫」と言いつづけて
笑っていましたが・・ついに高熱が出て感染症となり、再々入院されてしまいました。

どんなにつらい時も笑顔でユーモアを忘れず、自分に携わる人々を魅了し続けた、とても素敵な人でし
た。今は大好きな両親の元に旅立たれましたが、介護職として充分な支援が出来たのかと、感慨深く心
に残る経験となりました。今も辛い時の、あの素敵な笑顔を思い出す時には、心の中でこう呟いており
ます。「めぐり逢えてありがとうございました」と・・・

エピソード16 施設入所される方への最後の訪問、
その日にかけられた言葉・・・

その方は、認知症に罹患され、徘徊を続けていた方でした。
自宅へ訪問しても、その方はいつもご不在、徘徊されているのです。警察に捜索願を出すこともしばしば・・・捜索して見つかり、自宅へ連れ戻されるというのを繰り返していた方でした。
さすがに、こんなことが何度も起こると、最悪の事態も想定されると懸念し、ケースワーカー等各サー
ビス事業所で検討した結果、施設に入所されることとなったのです。

そして施設へ入所する当日の朝、最後の援助をすべくご自宅へ訪問した時の出来事です。
その方は内向的で人見知りがあり、他の人とコミュニケーションを取るのが苦手な方でした。私は、そ
の方が施設入所されても穏やかに生活ができるようにと、施設の職員宛にお手紙を書いたのです。
その内容はこうでした。
「施設での生活に慣れるまで、時間が掛かると思いますが、○○さんはとても気持ちの優しい方ですの
で、どうか長い目で見てあげて下さるようお願い致します」と。
私は、最後の訪問時に、その手紙を玄関のドアに貼り付けました。
そして何時ものように朝食を用意して、退出する時・・・「○○さん、これで帰りますね」と声を掛
けると、玄関まで追いかけてきて「また明日も来てくれるよね」とおっしゃるので、私が「はい、来ま
すよ」と答えると「絶対だよ」と手を握るではありませんか!

実は、施設入所することを、ご本人には伝えていませんでした。
しかし、恐らく気配を察したのでしょう。私の手を離そうとしなかったのです・・・「大丈夫、明日も絶対来るから心配ありませんよ」と伝えると、やっと手を離してくれました。
認知機能が低下しても、人の思いは伝わるのだ…そう思うと、帰り道涙が止まらなくなってしまいまし
た。

その後、その方の担当者とお会いする機会があり、生活の状況を確認したところ、「施設で数年ぶりに
お風呂に入ったら風邪を引かれてしまい、入院となりベッド上の生活になってしまった」とのこと。
ああ、聞かなければよかった・・・私の正直な気持ちでした。
あの時の、その方の顔を今も思い出す時があります。施設入所という選択が、ご本人にとって最善の方法
だったのだろうかと・・・介護職として、今でも感慨深く心に残っております。

エピソード15 一人の男性の、潔い生き方と、最期の迎え方・・・
家族思いの男性が綴った、感動の物語

先日、あるご利用者様が天国に旅立たれ、後日そのご長女様よりお手紙をいただきました。
その内容に、弊社スタッフは皆涙なみだ・・・

その方は、自営業を営んでおり、従業員を何十人も抱えていた方でした。
長年頑張ってきた商売を、ついに辞めることとなり、その決断をした矢先・・・
ご自宅で倒れられ、何と診断は脳梗塞。左半身に麻痺が残ってしまい、在宅療養となりました。
しかし、悲劇は続きます。昨年自宅で転倒し、それが原因で寝たきり状態になってしまったのです。
聡明で仕事も頑張り、家族愛に満ちた方が、突きつけられた「寝たきり生活」という現実。心の整理が
つかず、生きる希望を失いかけたそうです。それでも奥様は、献身的な介護を続けてきました。

しかし、長年の介護疲れもあったのか、奥様は体調不良で入院されてしまいます。
そして、残念なことにご本人に脳梗塞が再発し、ついに天国へと旅立ってしまったのです。
その方はいつも、奥様を気遣っていました。「妻が可哀想だ」「申し訳ない」と、口癖のようにおっしゃっていました。

私は、旅立たれる前日、その方にお目にかかったのですが、こんなことを口にされたのです。
「家の子供たちは皆よい子達だよ」「俺の世話をしてくれる妻に感謝したい」と。
ご自身、相当つらいはずなのに、口にするのは家族への感謝の言葉ばかり。
奥様にこれ以上世話をかけたくないとの強い想いが、人生の最期に結びついてしまったのではないか。
これが、その方なりの「男の潔い引き際」だったのかと想うと、胸が詰まります。
もっとできることがあったのではないか。その無力さに皆愕然としていた時に、ご長女様からお手紙を
いただいたのです。
お手紙には、「パパをありがとう」という言葉が何回も綴られていました。
何もしてあげられなかったのに・・・

こんな無力な私たちに、「ありがとう」といってくれる方がいると思うと、それだけで力が湧いてきま
す。そして、介護職員として襟を正さなければならないと、強く心に誓う次第でございます。

エピソード14 住み慣れた自宅で、愛する家族に見守られ、最期を迎える・・・
これが「あたり前」の世の中であってほしい

その方は、夫に先立たれ、女手一つで自営業をされながら、お子様二人を立派に育て上げてきた方でし
た。
ある日膵臓がんに罹患し、余命半年と宣告されてベッド上での生活を余儀なくされました。歌がお好
きで、訪問入浴のスタッフさんが来ると、いつも一緒に歌いながら入浴されることを楽しみにされてい
る方でした。
もう一つの楽しみは、訪問診療の先生の訪問。先生が大好きで、いつも先生の訪問を心待ちにされてい
たそうです。

懸命に介護・看護を続けていましたが、ついに悲しい別れの時がやってきました。
お子様・お孫様・ご兄弟が集まりましたが、その方はご家族を前に、最期の10分前まで歌をうたって
いたそうです。大好きな訪問診療の先生が到着されるのを、待ち続けているかのようでした。
そして、先生が到着すると、最愛のご家族に見守られながら、その方はふっと息を引き取られました。
先生が到着されるまで、その方は懸命に、懸命に、命の灯を燃やし続けていたのでした。

その話をご家族から伺った時、私は確信しました。
在宅で介護をする上で、訪問診療がいかに必要不可欠であるかを。
在宅での看取り・・・ご家族にとって、愛する人が天国に旅立つその時を、自宅看取ることがいかに辛
いことか、私も母を看取った経験があるだけに、よくわかります。
今も尚、最期は病院で迎えるという方が多いのが現状ですが、見直そうという考えが主流になってきて
います。何よりご本人様にとって、住み慣れた自宅というのは、においや家族の声、近所の生活音さえ
も懐かしく、安心できる空間なのではないでしょうか!
私たちは、そんなご家族のつらい想いに少しでも寄り添い、ご本人様が安心して暮らせるような環境が創れるような、そんな介護職であらねばならないと考えております。

エピソード13 チームケアの大切さを、この時ほど感じたことはない…
あるサービス事業者が創った、すてきな物語

その方は、ご主人に先立たれ、女手ひとつで娘様を育ててあげた方でした。

ある日、関節リウマチに罹患してしまい、生活するのにとても苦労されました。
症状としては、尺側偏位しており、両手指・両下肢指が内側に折れ曲がり、拘縮もひどく、膝も伸展できないという大変つらい状況です。入浴も、立ったままでないと痛くてたまらないということで、ずっとシャワー浴を続けていました。

ある日、入浴中に転倒してしまい、ADLも下がりベッド上での生活となってしまいました。
何とか自宅で入浴できないか・・・我々は、訪問入浴のご利用を提案致しましたが、拒否の連続でした。
ご本人の意向を尊重しつつ、根気よく提案を続け、やっと初回入浴に繋げた時、物語が生まれます。
入浴後、ベッドに戻ると、その方がボロボロと涙を流されているではありませんか!心配になり、どう
して泣いているのか聞いてみたところ、こんな一言が・・・
「こんなによくしてもらったのは、今までで初めてです。それに感動してしまって・・・」と、涙が止
まりません。入浴スタッフの温かい声掛け、チームワークの良さに、とにかく感動したのだそうです。そして涙もろい私も入浴スタッフも、一緒に泣き始めてしまいました。

「そんなに泣かないで!○○さんが泣くと私達も涙が止まらなくなるのよ」と言うと、また涙が・・・涙の連鎖反応が止まらないのです。
今までできたことが、病気等によってできなくなる・・・とても無念だと思います。
そういう方にとって、訪問入浴サービスの利用は勇気のいることであり、自分の無力さに落胆する方も多いと聞きます。

訪問入浴スタッフは、声掛けや気遣いにより、その気持ちを思いやり、和らげているのです。
私も、何度も初回訪問入浴に立ち合っていますが、いつもながら素晴らしいチームワーク、段取りの良
さ、入浴実施時の職員の所作に感激しております。
そんな訪問入浴事業所の皆様に対し、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

エピソード12 星の数ほど人間はいても、その人にとって「特別な」人…
そういう人に、私たちはなりたい。

「パーキンソン病」という難病に罹患された方のお話です。

とても気が優しく、涙もろい方で、携わっているヘルパーさんからも「○ちゃん、」と通称で呼ばれて
いる方です(本当は、ご利用者様に「ちゃん」付けでお呼びするのは不適切なのですが、その方に対し
てだけはお許しいただいています)。

もう、ずいぶん前から援助させていただいていますが、日に日に認知機能も低下してきておりました。
以前携わっていたAヘルパーが、家庭の事情で一旦外れたものの、2年後にまた縁あって訪問する事になり、サービス提供責任者が引き継ぎに同行訪問した時、物語が始まります。

そのご利用者様に「このヘルパーのこと、覚えていますか?」と提供責任者が確認すると、その方は
「覚えてない」と言いながら、何とAヘルパーに抱きつき、泣き出したではありませんか!
私たちは、その時確信しました。
その方は、Aヘルパーの人柄を忘れてはいなかったのだ、と。そして、認知症とか病気とかを超越し、思
いがつながっていたのだ、と。介護職は、ご利用者様の辛い思い、悲しい思いを受け止めながら、日々仕事をしております。解決することは出来なくても、傾聴するだけで、その方の心が軽くなることもあります。それでも、時には抱えきれないほどの思いを受け止めることもあるのです。
そんな時、介護職としての自分の無力さに苛まれることも、1度や2度ではありません。
大切なことは、私達介護職は、ただ「仕事」というスタンスだけでご利用者様に接してはならないとい
うことです。
これは、簡単なことではありません。確かに「仕事」ではありますから。
それでも、どんな些細なことでも、例えばご利用者様が靴を買いたいが決めかねている時にそのことで
相談があったとしても、私たちはお気持ちに応えてあげたい。

それはなぜか・・・
その方が、星の数ほどいる知人や友人の中から、自分を選んで連絡を下さったからだと思うのです。
私達介護職には、担当しているご利用者様が何人もいらっしゃいます。しかし、ご利用者様にとっては、
自分が唯一無二の介護職なのです。私たちは、常にそういう気持ちを持って対応したいと考えております。

エピソード11 介護職だけが立ち会うことのできる、 素晴らしい瞬間
歩行できなかった方が目の前で見せてくれた奇跡

先日、ある利用者様(男性)のお宅で、担当者会議を開催した時のこと。

その方は退院後、立位保持歩行が全く出来なくなり、ベッド上での生活となってしまいました。主治医に
受診しても「原因不明」との診断。とても穏やかな方で、入院前までは、自転車で近所へ散策すること
が趣味だった方だったのに・・・

当日、訪問リハビリのPT(理学療法士)の方が、ご本人の身体機能確認も含めて会議に参加されたのです
が、ここで奇跡が起きます。
PTの方がご本人に歩行を促した時、何と1歩、2歩と歩き始めたではありませんか!!
ベッドにもどると、その方は肩を震わせ、顔をタオルで隠して泣き出してしまいました。
その場に居たご家族、サービス担当者、そして涙もろい私も涙・涙・涙・・とにかく感動致しました。

介護サービスは「チームケア」が基本です。
いつも感じている事ですが、訪問入浴、訪問看護、訪問リハビリ、通所介護、福祉用具貸与、訪問介護
等の専門的分野の視点、協力がいかに重要か・・・
このような頼りになるチームの存在なしに、ケアマネの仕事など成り立ちません(勝手に“チーム井上”
と心の中で叫んでいます)。

僭越ながら、私は介護職が天職だと思い込んでおりますが、この利用者様の熱い涙を見て、改めて「自分は素晴らしい仕事に携わっているのだ」と感じた次第です。それと同時に、責任の重さに身が引き締まる思いでした。私達ケアマネは、利用者様お一人お一人の声や専門職の皆様の意見に、真摯に耳を傾けていきたいと、改めて心に決めた瞬間でした。

エピソード10 メールやLINEではなかなか伝わらない、究極のコミュニケーション
感謝の言葉を、自らの手で書くこと

お正月といえば「年賀状」。
弊社では、各担当者がご利用者様に対し、感謝の気持ちをこめて言葉にしたため、お出ししています。

あるお正月、こちらから年賀状をお出ししたあとに、わざわざ弊社を尋ねてきて下さったご利用者様がい
らっしゃいました。その方いわく「最近の年賀状は形式ばったものばかりなので、正直読んだら捨てていました。でも、おたくの担当者はわざわざ直筆で書いてくれて、しかもその言葉が何と心に染みたことか・・・とにかく、とてもうれしかったんです」と涙を流され、感謝の気持ちを伝えて下さったのです。

自分が担当するご利用者様に対して、ただ感謝の気持ちを伝えたい・・・ただそれだけでした。
なのに、この「サプライズ訪問」と、いただいた温かいお言葉に感動し、思わずもらい泣きをしてしま
いました。
このご利用者様は、きっと辛い経験や、嬉しい経験を沢山されてこられた方なのだなと感じました。こ
の方のように、人からの優しさをより多く感じることのできる人間になれるよう、私たちは成長しなけ
ればいけない・・・正直な気持ちです。
ご利用者様の辛い思い、悲しい思いを受け止められような介護職にならなければ、いいサービスは提
供できません。そういう使命感を、この方に改めて教えていただきました。

エピソード9 新人だったあの頃、勇気と自信を与えてくれた言葉
「言霊(ことだま)」の力

ある女性ご利用者様のお話です。
その方は、若い頃から障害者手帳の交付を受けられており、何度も入退院を繰り返されていた方でした。

ある日、私が臨時にその方のご自宅を訪問して、食事作りをしていた時のこと。
出来上がった料理を見て、「おいしそうにできているわね。愛情がこもっているわ。一目見ればすぐに
わかるのよ」とおっしゃってくれたのです。
その当時、私はなりたての新人ヘルパーで、右も左もわからず不安の毎日を過ごしていました。
「自分の援助は、果たして皆さんにご満足いただけているのか」と思うと、心配で不安でたまりません
でした。
あの時も、私が調理している姿が、自信なさげに見えたのでしょう。
だからこそ、その労いの言葉に、私は心が揺れ、思わず涙がこぼれて止まりませんでした。

ご利用者様もさることながら、ご主人様も素晴らしい方で、病床に伏す自分の妻に対し「何も心配する
ことはないよ」といつも勇気づけてくれたそうです。
そんな温かい言葉をかけてもらうご利用者様が、こんなことをおっしゃっていました。
「主人の優しさに応えられない自分が悲しい。お金なんかいらないの!健康さえあればいいの!なのに、
自分はこんな身体で・・・こんな自分なら死んだ方がましだけど、病気では死ねないのよ」と。
初めて会った新人の私に向かって、思いの丈をぶつけて下さったのです。
私は、この言葉に感銘を受けずにはいられませんでした。

人の心に響く言葉・・・
辛い闘病生活を送られた方だからこそ、伝えられるのだなと感じました。
「言霊」ともいいますが、私たちのような介護に従事する者にとって、人に伝える言葉の重みや大切さ
を知ることはとても重要です。ご利用者様お一人お一人に対してかけさせていただく言葉を、私たちは
学ばなければならないと痛感しております。

エピソード8 認知症状のある方の行動を「問題行動」と解釈したくない!
できることは、必ずある

そのご利用者様は、認知症と診断された方で、義歯は作ったものの使うのをずっと拒否されていた方で
した。ヘルパーが促してもうまく行かず、甚だ困り果てておりました。
どうしたら、うまく行くのだろうか・・・
そう思いつつ、義歯の必要性を再確認するために、毎日足しげくご利用者様宅を訪問し、義歯の装着を
試みた次第です。

そんなある日、担当ヘルパーからの連絡で「自分で義歯をつけたよ」との報告が!!
その言葉に、舞い上がるほどうれしくなった私は、即ご利用者様のご自宅に駆け付けたのを覚えていま
す。口腔ケアを継続することが、どれほど大事なことか・・・
唾液を飲み込むことができなくなると、誤嚥性肺炎を発症するリスクが高まることは、皆様よくご存知かと思いますが、欠損部分を義歯で補うことにより、咀嚼能力が増して誤嚥のリスクが低くなると、医師から聞きました。
医療的なことはもとより、ここで学んだことは、「認知症状があるからといって、ケアをあきらめて
はいけない」ということ。
以前は、認知症に伴う行動を「問題行動」などと言っておりました。

しかし、別にその方は問題を起こしているわけではないのです。
今は、その症状を「認知症の周辺症状(BPSD)」というようになりましたが、とにもかくにも口腔ケアの必要性を認識すること、そして何よりも、認知症だからといって「ケアすることをあきらめな
い」という姿勢、これが大事なのだということを痛感しております。

エピソード7 介護を通じて
「家族の大切さ」を改めて痛感したお話

お子様を出産されてすぐに、「関節リウマチ」にかかってしまった、ある女性利用者様のお話です。
本来、すぐに治療しなければならない病気ですが、子育ての忙しさにかまけてしまい、治療を放棄した結果重篤になってしまった方でした。

その後、お子様も独立され、夫婦二人暮らしをされていた時に、ついにリウマチの症状が悪化してしまったのです。

最悪なことに、それまでに服用していた薬の副作用により、頸椎が融解し呼吸困難になってしまい、救急搬送、即緊急手術となりました。
頸椎をワイヤーで止めるという手術で、頭部にリングをはめて固定するというもので、大の男でも根を上げるという辛い治療にも耐え、在宅へ戻られた方でした。

そんな折に、今度は旦那様がガンを罹患され・・・
ご本人様もまた体調を崩され、偶然にも同じ病棟に入院されることになったのですが、旦那様のガンが相当の末期状態。衰弱するのはあっという間でした。

そしてある日、旦那様が奥様(ご本人)の名前を呼び続け、ついに最期を迎えたとのこと。

私がその利用者様の援助中にお聞きした、後日談。
一番無念だったのは、「夫が自分を呼んでいるのに、何もしてあげられなかったこと」だと。
その無念さを、利用者様は声を振り絞るように話されていて、私は援助中にも関わらず涙が溢れて止まりませんでした。
その後、娘さんのご自宅で介護を受けていましたが、「ご主人を大切にしなさい」と口癖のように私に話して下さり、いつも前向きで、勇気と優しさを心に届けて下さった方でした。
ご利用者様の辛く悲しい気持ちを解消することはできないかもしれません。
しかし、せめてその想いに添うことはできます。
そのことをいつも心に秘めて、介護職として接していきたいと思っております。

エピソード6  
自分が決めた「生き方」と「最期の迎え方」

ある男性のお話です。

その方は、会社を定年退職され、第二の人生を過ごされていました。
趣味が多彩な方で、自分もこんな老後を迎えたいと、うらやましく思っておりました。

そんな最中に、突然の病がご本人に襲いかかったのです。
その病名は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)。
最近、ALSの啓蒙のため取組み「アイス・バケツ・チャレンジ」が、世界中で話題となりました。
日に日に、運動機能が低下していく難病です。
ご本人がそれを自覚するようになった時に、私とめぐりあったのです。
難病にかかっても、その方はいつも素敵で魅力的な方でした。
時間の経過とともに身体はどんどん動けなくなり、痛みも伴う中、決して弱音を吐かない方でした。
間違いなく苦しいはずなのに・・・

その方と関わるようになって、一番印象に残った言葉があります。
それは、ALSにかかってしまったら、その瞬間に「自分の死に方」を選択しなければならないという言
葉でした。一所懸命、日本のため家族のために働いて、やっと第二の余生を楽しめると思った矢先の出来事。神様は、何と残酷なことをするのだと思ったものです。

その方が下した決断は「人工呼吸器はつけない」というものでした。
人間は呼吸困難が続くと、数分で死に至ると言われています。死の中で最も苦しいのが「窒息」だとも言われます。
「人工呼吸器をつけない」ということは、それも覚悟の上であるということだったのでしょう。
でも、万一呼吸困難になって「助けて」と言ったらどうしようと、その方は不安を漏らされていました。

その後、その方は少しずつ食が細くなり、ついには一番大好きだったヘルパーさんの援助中に、天国に旅立たれたのです。
もしかしたら、食が細くなったのも、ご自身の意思によるものではないかと思えてなりませんでした。
確証があるわけではありませんが・・・

もちろん、お亡くなりになったのですから、悲しいに決まっています。
でも、それ以上に、私は何とも言えない清々しい想いが心に残りました。
これが、「自分が決めた通りの生き方」「自分らしい最期の迎え方」だったのだと思えたからです。

私は、いつまでも介助者の心に残るような生き方が、果たして出来ているだろうか。
そんなことを考えさせられた、感慨深い貴重な体験となりました。

エピソード5 元気だった自分が、突然の難病に…もしそうなったら、
あなたはご自分を受け入れられますか?

奥様と二人三脚で、自営業をされていた方のお話です。

ある日突然、難病に罹患してしまい、自営が続けられなくなり引退。二人で静かに暮らしていらっしゃいました。
私が担当ケアマネジャーになり、初めて訪問調査に伺った時のこと・・・
「食事はご自分で摂れますか?」の問いに、ご本人様が突然泣き出されてしまったのです。びっくりし、どうなさったのかを尋ねたところ、そばにいらっしゃった奥様のお答えはこうでした。

「食事が上手に摂れなくなり、エプロンをかけて自力で食べてもらっているのですが、どうしても食べこぼしがあるために、私が手伝おうとすると、主人が拒否するのです」と。
それを聞いたご本人様、今まで我慢されていたものが爆発したのでしょう。「ごはんを食べるのも、人に手伝ってもらなければならないなんて、情けない・・・」と、また大粒の涙をこぼして泣き出し、それを見た奥様も、「お父さん、泣かないで」と言いながら、もらい泣きしていらっしゃったのです。
涙もろい私も、つられて・・・涙。

何とかなぐさめなければ、と思った私。
しかし、気の利いたことも言えず、「何もお父様が悪いわけではありませんよ。これは病気が為せる業なのですから、何も情けないなんてことはありません。今までご家族のために一所懸命働き、支えてこられたのですから、できないことは奥様が快く手伝ってくれますよ」というのが精一杯でした。

ある日突然、難病に罹患してしまったご本人様、それを支えるご家族様。その思いに、介護支援専門員としてどれだけ添うことが出来るのでしょうか。自分に置き換えた場合、果たして自分はその事実を受け入れることができるだろうか。そういう想いに苛まれ、悩んだことを思い出します。

しかし、当のご本人様はもっと思い悩み、苦しんでいらっしゃる。そういう方々に対し、介護のプロとして何ができるか・・・

できることは、ほんのわずかかもしれません。しかし、少しでもその方の気持ちに添うことで、ご本人様・ご家族様の不安なお気持ちが軽くなればと考えております。

エピソード4 大切な方の、最期の時・・・
介護職として何ができるか

お産婆さんをされていた、あるご利用者様のお話です。
 
過去に、数えきれない程の新生児を取り上げた方・・・ご自身のお部屋には、取り上げた子供の成長したお写真が何枚も保管されており、その時の出来事を話して下さるのを、私は訪問するたびに楽しみにしていました。
 
しかし、月日の経過に伴い、その利用者様もだんだんと身体が弱ってきて、拘縮もかなり進んでいました。さぞ、お辛かったことでしょう。
そんなある日のこと、いつもは愉快にお話をして下さるのに、その時ばかりは弱音を吐かれたのです。
「こんな姿になってしまって、私はこれ以上生きていたくない」と。
細って弱っていく自分の身を案じたのか、そうおっしゃってただただ泣かれたのです。
 
この光景を目の当たりにした私は悲しくなり、不覚にも涙が止まらなくなってしまいました。
 
そんな中、傍らでお聞きになっていた娘さんが、お母様に対しおっしゃった言葉が、今でも印象に残っています。「お母さんは、生きているだけでいいのよ」と。その通りだなと、痛感しました。
 
その言葉に勇気づけられたのか、娘さんの思いを知っていたのか、その後は弱音を言うことなく、またいつものように、楽しかったお産婆さんだった時の話をされておりました。
 
そしてついに、人生の終焉の時が訪れます。その方は、大好きな娘さんたちに見守られながら、ご自宅で幸せな最期を迎えられました。
 
私も、母を自宅で看取りました。
両親とは、どんなことがあっても自分を味方してくれる、かけがえのない存在です。
自分にありったけの愛情を注いでくれた母。そんな母を介護していた時間は、かけがえのない時間であり、また幸福なひと時だったと・・・
 
そんな大切な時間を共有できる介護職という仕事、とても素晴らしい職業だと感じ、胸を張って頑張っています!!

エピソード3  
若かりし頃の素敵な思い出

不定愁訴があり、夕方になると血圧が高くなると、気にされていたご利用者様(女性)がいらっしゃいました。その方の、素敵な思い出話を、ここに披露させていただきます。

学校を卒業して、出版会社に就職した時のことです。
そこで知り合った、運命の男性・・・お互い惹かれあい、お付き合いが始まりました。
それから2年、結婚を意識するようになった矢先・・・その男性から、「ほかの女性と結婚するので、別れたい」と言われ、泣く泣く別れることになってしまったのです。それはそれは、悲しみに暮れたそうです。

その後、良縁があり、結婚され、二人の子供にも恵まれました。家族が出来たことの喜び。これが「幸せ」ということなのね・・・と。
しかし正月になると、欠かすことなく毎年年賀状を送ってくれる人がいたのです。
その送り主、何と自分と別れた男性からではありませんか!!普通、結婚前に付き合っていた彼氏からの連絡を、よく思わない旦那様、多いのではないでしょうか?なのに、その利用者様の旦那様は、「あなたの待っていた年賀状が来たよ!」と、毎回手渡ししてくれたというのです。

実に懐の深い、素敵な旦那様ですね。旦那様は、残念ながらご逝去されましたが、そのあとも滞ることなく、男性から年賀状が届き続けたとのこと。

そのご利用者様が、ある時、こんなことを話してくれました。
「夢の中では、若かりし頃の自分のままで、彼に会えるのがうれしいのです。毎晩ふとんの中で、『今日も夢の中で彼に会えますように』と祈って、眠るのですよ」と。
とてもチャーミングで、少女のように純粋な方でした。淡く切ない思い出。それを人に伝える時に、若かりし頃の自分に戻れることは、本当に素敵なことなのだなと、強く感じた次第です。

皆さんには、心がキュンとなるような素敵な思い出、ありますか?
どうぞ、その思い出は心の中に、大切にしまっていただければと思います。

エピソード2  
心に響く言葉

ご利用者B様は、小さい時に障がいを患い、それ以降車いすでの生活を余儀なくされました。
そんなある日電動車いすへ移乗しようとした時に、転倒してしまったそうです。
その時にたまたま通りかかった小学生が、「おじさん、大丈夫?」と声をかけてくれました。
B様はうれしさのあまり「ありがとう。君のお母さんは素晴らしい人だね」と言ったところ、その小学生
は「ぼくのお母さんはふつうの人だよ」と言いました。

その話を、ある日B様から伺ったのですが、ご本人いわく「私は、障がいを持つ人が転倒している時に、
『大丈夫?』と声をかけることのできる子どもは、さぞかし親の教育が行き届いているのだろうと思って
、その子に声をかけたんだよ」と仰いました。
その時、子どもがどう感じたかはわかりません。でも、B様はいっぱいの気持ちを込めて、伝えたそうで
す。
そのエピソードを聞き、思わず胸が熱くなり、同時に目頭が熱くなったのを覚えております。
身体に何の障がいもない人間だったら、その子がかけた言葉を、どう捉えたでしょうか。それ程心に留ま
ることもなく、当たり前のこととして見過ごされる可能性は、十分あるかもしれません。

何気ない言葉。でも、心に響く言葉。
障がいや病気になった時こそ見えるもの、心に突き刺さる言葉は、あるのですね。

エピソード1  
ご家族から頂いたお手紙

長きにわたり関わらせていただいたA様が、先日大好きなご両親の元に旅立たれました。

このご利用者様とは、弊社設立時からのお付き合い。
若い時に結核を患い、長期療養されていた時に、短歌の師匠に出会われたとのこと。
それから、短歌が大好きになり、すっかりのめり込まれたそうです。
その師匠の方がお亡くなりになり、お墓参りに行かれた時に詠まれた短歌が、実に素晴らしかった
のが思い出されます。
A様は笑顔が大変チャーミングで、介護状態になっても最期まで前向きな明るい方でした。
そんな中、突然の訃報・・・弊社職員も大変悲しみに暮れ落胆していた時に届いた、1通のお手紙が
届きました。そのお手紙はご本人の妹様からで、そこには有り余る程の感謝のメッセージがありました。
私たち介護職ができることといえば、ご本人様やご家族様のご負担を、ほんの少し軽減すること位です。
それでも、力になることができていたというのは本望であり、こんなに嬉しいことはありません。
改めて、介護という仕事のやりがいと素晴らしさを、再認識した次第です。

A様のご家族様、本当にありがとうございました。心より、故人様のご冥福をお祈り申し上げます。